隣室の怪異 01


松原朔真がその音を聞いたのは、やけに涼しい初夏の夜。部屋の窓を開け放ち、趣味の読書に耽っている時だった。

 

「…………ん?」

 

 ページを捲る音に混じって別の音が聞こえた気がして、朔真は読んでいた本から顔をあげた。

 今の音はなんだ? 窓が開いているし、風に吹かれて何かが落ちたのだろうか?

 そう思い室内を見回してみるが、何か落ちたような形跡はない。そもそも強い風が吹いた感覚もなかったし、確信を持って音がしたと言えるわけでもない。だからきっと、気のせいだったのだろう。

 気を取り直して朔真は本に意識を戻し――今度こそ、確かにその音を聞いた。

 

 何かを叩く鈍い音だ。どんどん、どんどんという音が鼓膜を揺らしている。

 どこで鳴っているんだと音の出所を探ってみれば、それは壁越し、つまり隣室から響いているようだ。音の感じからして、誰かが壁を叩いているのかもしれない。

 

「……いや、なんでだよ!」

 

 思わず突っ込んでしまった。

 騒がしくしたわけでもないのに、隣室の壁を叩くとは一体どういう了見だ。このアパートに小さな子供は住んでいないはずだし、複数人で集まっている風でもない。騒音を立てるなら、誰かが意図的にやっている可能性が高いが……まさか嫌がらせだろうか? だが、隣室の住人との付き合いはないも同然だ。朔真には嫌がらせを受ける理由など心当たりがなかった。

 顔をしかめる朔真の耳に、再びどんどんという音が届く。一瞬叩き返してやろうと思ったが、ぐっと堪えて読書を再開する。しかし、その後も不定期にそれは聞こえてきて、とても読書に集中できそうにはなかった。

 

 そうして数分ののち。朔真は本を閉じると静かに立ち上がった。もう我慢の限界だ。まっすぐ玄関へ向かい、足早にあそこ――隣室を目指す。

 ピンポーン

 隣室のインターフォンを鳴らす。普段の朔真なら夜の10時過ぎに他所の家を訪ねるなんてしないのだが、今回ばかりは仕方ない。理由もなく壁を叩かれては文句の一つでも言いたくなる。

 

「いないのか……?」

 

 少し待ってみて、朔真は首をかしげた。

 誰も応答しないのだ。玄関横の小さな窓からは、確かに明かりが漏れているのに。

 聞こえていないのか、あるいは居留守でも決め込むつもりか。朔真はもう一度インターフォンを鳴らすが、またしても応答はなかった。

 はてさて、一体どうするべきか。壁を叩かれたのは間違いないし、部屋の明かりも点いている。誰かがいるのは確実だ。こうなったら応答があるまで――

 半ばやけになった朔真が再びインターフォンに指を伸ばした、その時だ。

 

「うちに何か用事でも?」

 

 と、やわらかい声がした。

 声のした方を振り返ると、薄手のカーディガンを羽織った背の高い男が立っていた。ミルクティー色のさっぱりとしたくせっ毛に、夏の青空が映り込んだような瞳。さらにはスッと通った鼻筋と、緩く弧を描く薄い唇。それらが完璧に配置された彼の顔立ちは、そこらの俳優も顔負けなくらい整っている。かくいう朔真も引っ越しの挨拶をした際、ずいぶん綺麗な人が隣に住んでいるんだなと思った記憶がある。

 だが今は、そんなことどうでもいい。

 

「友人が来てるのか知りませんけど、さっきから壁叩く音がうるさいんですよ。やめるよう言っておいてください」

 

 じとりと男を睨みつけて訴える。誰がやったのか知らないが、さすがに部屋の主に言われたら、また壁を叩くようなことはしないだろう。

 そう、思ったのだが。

 男は不思議そうに目を瞬かせ、それからとんでもない事実を告げた。

 

「そんなこと言われても、今この部屋には誰もいないよ?」

 

「…………え? 誰もいない?」

 

 そんなまさか。あれは聞き間違いなんかじゃない、確かに誰かが壁を叩いていた。

 男の言い分を信じられず、思わず眉根が寄ってしまう。しかし彼は朔真の主張を本当に不思議がっているようで、とても嘘をついている風には見えなかった。

 

(本当に誰もいないのか? でも、だったらあの音は――)

 

 ふと一つの可能性が脳裏を過り、朔真は慌てて頭を振った。駄目だ、その可能性を考えてはいけない。

 すっかり顔を青くする朔真に気が付いたのか、「大丈夫?」と心配する男の声が聞こえる。一つ深呼吸をしてから顔をあげ、朔真は引きつった笑みを浮かべた。

 

「大丈夫です。ちょっと驚いただけなので」

 

「そう? ならいいけど。ところで、部屋の確認は必要かな? 僕が嘘をついているかもしれないよ」

 

「……いえ、たぶん俺の聞き間違いです。お騒がせしてすみませんでした」

 

 朔真は軽く頭をさげると、そそくさとその場をあとにした。男が何か言いたげな顔をしていたが、それには気付かなかったふりをする。ほとんど言いがかりをつけただけになってしまった気まずさもあり、今すぐにでもこの場を立ち去りたかったのだ。

 

 ――だから、この時の朔真は気付かなかった。部屋へ戻るその背中を、彼がじっと見つめていたことに。


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