結論だけ言えば、あれから壁が叩かれることは一度もなかった。
本当に聞き間違いだったんじゃないか――そう錯覚しそうになるくらい、いつもどおりの夜が過ぎていく。もしかすると隣人の男が嘘をついていただけで本当は誰かがいた可能性もあるが、なんの音も聞こえないならどちらでも構わなかった。
そんなわけで、特に問題もなく迎えた翌日。
つつがなく仕事を終えた朔真は職場である市立図書館から帰ろうとし、ぴたりと足を止めた。入り口のすぐ横に、見覚えのある人物が立っていたからだ。
ミルクティー色のくせっ毛と、すらりとした長身。後ろ姿だけで誰だかわかってしまうその人物に、思わず「げっ……」と声が漏れる。きのうの今日で見間違えるはずもない、隣人の彼だ。
(なんでいるんだよ……)
自分でもわかるくらい顔を引きつらせ、別の出入口から帰ろうかと思案する。なんの用事があってここにいるのか知らないが、さすがにまだ気まずさが抜けきっていない。できることなら顔を合わせずに済ませたいところだ。
しかし、こういう時に限って物事はうまく運ばない。朔真の視線に気が付いたのか、男はこちらを振り返るとふわりと笑い手を振った。
「こんばんは、松原くん」
「…………どうも」
「少し話がしたいんだけれど、アパートに着くまで付き合ってくれる?」
にこやかに放たれた言葉は一応疑問形を取ってはいたが、「No」とは言わせない雰囲気をまとっていた。どうやらこちらに拒否権を与えるつもりはないらしい。
朔真は大きな溜め息をついて、仕方なしに頷いた。
***
「ごめんね、強引な真似して」
図書館からアパートへ向かう帰り道。改めて九十九雅と名乗った男は、悪びれる風でもなくそう言った。明らかに待ち伏せしていたくせによく言ったものである。
それよりも朔真が気になるのは――
「それは別にいいですけど、なんで俺の職場知ってんですか。教えてないですよね?」
そう、これだ。待ち伏せしていたということは、雅は朔真が図書館司書なのを知っていたことになる。引っ越しの挨拶以来まともに話したのはきのうがはじめてだし、当然、自身の職場について話す機会もない。今日偶然図書館を訪れて、偶然朔真を見かけたから待っていた……と考えるのは、さすがに都合がよすぎるだろう。
朔真の疑問に、雅は「ああ、それ?」と、あっさり種明かしをした。
「仕事柄、資料を探しに図書館まで来ることが多くてね。君の顔を覚えていたんだよ」
「じゃあ、俺が司書やってるって前から知ってたんですか?」
「そうなるかな。まあ、きのう会うまで隣に住んでることは忘れていたんだけど」
「顔合わせることほとんどないですからね」
それにしたってすごい記憶力だとは思うが。頻繁に通っているとはいえ、司書の顔なんてそうそう覚えるものではないだろうに。ともあれ、最初から朔真の職場を知っていたなら――実行するのはどうかと思うが――待ち伏せできたのも納得だ。
「……で、何が聞きたいんですか?」
ちらりと雅の方へ視線をやって本題に入る。
タイミングからして、雅がきのうの一件に興味を持っているのは明白だ。朔真としてはこれ以上関わりたくないのだが、きのうの負い目もある。せめてアパートに着くまでは、おとなしく雅に付き合うしかないだろう。
問われた雅は何度か瞬きを繰り返すと、
「なんか意外かも。素直に話してくれるとは思わなかったよ」
「俺だって、話さなくていいなら話したくないですよ。でもまあ、きのう悪いことしたとは思ってるんで。家に着くまでは付き合おうかと」
「真面目だねぇ。別に言いがかりをつけたくて乗り込んできたわけじゃないんでしょ?」
「そりゃ、そこまで暇じゃないし。そもそもそんなことする理由もないですからね」
「……僕が嘘をついているとは考えなかったの?」
一瞬だけ考えた可能性を本人に問われ、思わず雅を見てしまった。半歩前を行く彼の表情はよく見えない。
朔真は前に向き直り、素直な意見を吐き出した。
「少しは考えましたけど、音は聞こえなくなったからどっちでもいいかなって。あんたが嘘ついてるようにも見えなかったし」
「そっか。でも、松原くんは壁を叩く音を聞いたんだよね?」
「……聞いた。でなきゃ、あんたの部屋まで行ってない」
「ふふ、それはそうだ。でも、だったらさ――」
不意に雅が立ち止まり、朔真の方を振り返る。変わらず穏やかな笑みを湛えるその顔は、まるで不思議な力でも働いているかのようで。少しも目を逸らすことを許さない。
これから雅が口にするのは、きっと朔真が一番聞かれたくないことだ。答えは一応持ち合わせているが、果たしてそれを聞いた雅はどんな反応をするのだろう? 冗談でしょと笑い飛ばすのか――今まで何度も晒されてきた、怪訝な目を向けるのか。どちらにせよ、今後の近所関係になんらかの影響が出そうなのは間違いない。
黙って次の言葉を待つ朔真に、雅はにこりと笑いかけた。
「その音の原因は、なんだったんだろうね?」