「誰もいないはずなのに、どうして壁を叩く音がしたんだろうね?」
こんな状況でなければ思わず見惚れてしまいそうな笑顔を浮かべ、雅は朔真に問いかけた。
(やっぱりそうなるよな……)
ほとんど予想どおりの質問に、内心溜め息をついた。
聞かれることはわかっていたしアパートに着くまで付き合うとも言ったが、どうしても話したくないことはある。付き合いの長い友人相手ならまだしも、ほぼ初対面、しかも隣人とあっては余計に。朔真の出した"答え"は、それほどまでに人を選ぶのだ。
「……九十九さんは、どうしてだと思います?」
どう返すか悩んだ末、朔真は同じ質問を投げかけた。ずるいことは自分でもわかっていたが、今はこれ以外言葉が出てこなかった。
一方、問われた雅はといえば朔真の答えを気にした風でもなく、「え、僕?」とのんきに首を傾げている。ほとんど逃げるための質問ではあったが、雅があの現象をどう解釈しているのかは個人的に気になるところである。何せ雅は自分が嘘をついていないとも、朔真の言い分を信じるとも明言していない。何を考えているのかさっぱりわからないのだ。
……もっとも、その印象は答えを聞いても変わらなかったのだが。
「僕はね――壁を叩いていたのは幽霊じゃないかと思うんだ」
「………………は?」
思わず間抜けな声が漏れる。
今、この男はなんと言った? 聞き間違いでなければ「幽霊」と言わなかったか?
真面目なトーンで吐き出されるオカルト的な仮説に理解が追いつかない。いや、脳が理解することを拒否している。なんで、どうして雅がその仮説を口にするんだ――?
顔を強張らせる朔真を気にも留めず、雅は楽しげに続ける。
「あの日、僕の部屋には誰も来ていなかった。でも君は壁を叩く音を聞いた。二人とも嘘をついていないんだとしたら、原因は姿の見えない存在――つまり幽霊にならない?」
「いや、幽霊が犯人だって言われても……俺の聞き間違いだった、って言う方がよっぽど現実味がありますよ」
「そうかもね。でも君が僕を信じたように、僕も君が嘘をついたとは思えないんだよ。それに――」
「……それに?」
意味深に言葉を切られ、嫌な予感が駆け抜ける。
渋々ながら先を促すと、ついに雅はとんでもない事実を暴露した。
「僕の部屋――203号室はね、事故物件なんだよ」
「………………」
「3~4年くらい前かな? 当時の入居者が自殺してから、あの部屋を借りた人はことごとく心霊現象に遭遇していて――あれ? 松原くん?」
言葉が出なかった。隣室が事故物件だと知った驚き――ではなく、そんな部屋に平然とした顔で住んでいる雅への呆れの感情で。
雅の話はおそらく真実だ。203号室には幽霊が住み着いている。きのうになって突然壁を叩き始めたことに疑問は残るが、少なくとも隣室に何かがいることは朔真の体質が証明できる。
朔真には、いわゆる霊感と呼ばれるものがある。例えばラップ音や呻き声など、怪異の発する"音"を認識した時にだけ人ならざるものが見える、少し変わった体質だ。幽霊の姿こそ確認していないが、朔真が音を聞いた時点で何かがいる。それだけは間違いない。
「もしかして怖がらせちゃった?」
「……っ!?」
無言で考え込む朔真を見て、怖がっていると解釈したらしい。いつの間にか目の前まで迫っていた雅が、顔を覗き込んでいた。
いくら男とはいえ、綺麗な顔を間近で見るのは心臓に悪い。朔真は慌てて後ずさった。
「別に怖がってないです。ただ……ずいぶん悪趣味な部屋に住んでるな、と」
「はは、酷いこと言ってくれるね。否定はしないけど」
「自覚あんのかよ」
「まあ、さすがにね。君以外にもいろんな人に似たようなこと言われたし」
けろりとした様子で雅は言うが、笑い事ではないと思う。
ついつい隠すことも忘れて盛大な溜め息をつく。待ち伏せしている時点で薄らそんな気はしていたが、隣人は相当な変わり者らしい。聞いても後悔しそうだから触れずにいるが、事故物件に住んでいる理由もロクなものではないのだろう。もしこれで何か深刻な理由があるのだとしたら、彼はとんだピエロだ。
「ああ、そうだ。松原くん、一つ頼みたいことがあるんだけれど」
いい加減帰ろうと再び歩き始めたところで、ふと雅が声をあげた。
知り合ったばかりの男に頼み事をされる筋合いはないのだが。
するりと出かけた本音は飲み込んで、「なんですか?」と相槌を打つ。前を向いていて雅の顔は見えなかったが、この時の彼は相変わらずいい笑顔を浮かべていたのだろう。
「また僕の部屋から気になる音が聞こえたら教えてくれないかな。あの部屋のことが知りたいんだけれど、あいにく僕は心霊現象と縁がないみたいでね。去年から何も異変に気付けないんだ。でも松原くんは耳がいいみたいだから、君が手伝ってくれたら――」
「嫌です」
「そんな食い気味に拒否しなくても……ちょっと手間はかかるかもしれないけど君に被害は及ばないんだし、教えてくれるくらい――」
「絶対嫌です」
「なんでそんなに嫌がるの!?」
ちょっとくらいいいでしょ? ね? と、なおも食い下がる雅を適当にあしらいながら、どうしたものかと思案する。朔真の耳が本当に怪異の音を聞き取っているとは思っていないのだろうが、だからこそ、迂闊な行動を取ってその事実を知られたくはない。しかしこの様子では、頷くまでしつこく詰め寄られても不思議ではないだろう。
――もしかしなくとも、きのう雅の部屋を訪れた時点で手遅れだったのでは?
どれだけ考えてもその結論に辿り着いてしまって、朔真はもう何度目かもわからない溜め息をつくのだった。
(完)