美術室の幽霊


 学校の美術室に幽霊が住み着いている。

 藤堂捺希がその話を聞いたのは、日に日に暑さが厳しくなる初夏のこと。昼食を終え、幼馴染みと雑談しながら午後の授業が始まるのを待っている時だった。

 

「あの……ちょっと話したいことがあるんだけど。今いいかな?」

 

 昼休みの喧騒に掻き消されてしまいそうな控えめな声に呼ばれ、捺希はそちらを振り向いた。

 声をかけてきたのは、あまり話したことのないクラスメイトだった。いつも自分の席で本を読んでいる、物静かな男子生徒だ。名前は確か――八嶋といっただろうか。

 個人的に付き合いがあるわけでもない、本当にただのクラスメイトといった関係の彼が、一体なんの用事だろう? 話しかけ方からして、教師に何か頼まれたわけではなさそうだが。

 

「大丈夫だけど、どうかしたのか?」

 

 ひとまず疑問を頭から追い出し、素直に相手の用件を尋ねた。

 八嶋はちらりと周囲の様子を確認すると、ひどく申し訳なさそうに言った。

 

「二人に……というか、生徒会に相談したいことがあって」

 

「生徒会に?」

 

 美潮第二高校生徒会副会長。それが校内での捺希の肩書きだ。

 生徒会長は今も一緒にいる幼馴染み――国原昶。この男が人当たりのいい完璧な優等生を演じていることもあり、生徒会には様々な"相談"が持ち込まれる。やれ部費を増やしてほしいだとか、ボロくなった備品を買い換えてほしいだとか。つまりは八嶋もそういう生徒の一人、よくあるいつもの光景。

 ――具体的な相談内容を聞くまでは、そう思っていた。

 

「実は、美術室に幽霊がいるみたいで。後輩が怖がってるからどうにかしてあげたいんだけど……」

 

「…………は?」

 

 八嶋は今、なんと言った? 聞き間違えでなければ、幽霊がいると言わなかったか? 噂話ならともかく、まさか相談という形でこんな話を聞くことになろうとは。

 自分でもわかるくらい、捺希はあからさまに怪訝な顔をした。

 

「美術室に幽霊って……それ、本気で言ってるのか?」

 

「うっ……ごめんね、変なこと言って。でも、奇妙なことが起こってるのは本当なんだ。真相がわかるならそれが一番いいんだけど、せめて噂が落ち着くまで、美術部が他の教室でも活動できるように許可がほしくて……無理かな?」

 

「まあ、教室の使用許可くらいなら出せるだろうけど……」

 

 そこまで言って、捺希はちらりと昶の方を見やった。最終的に判断するのは生徒会長だという理由もあるが、果たして「美術室に幽霊がいる」なんて理由で別教室の使用許可をもぎ取れるものなのか? そのあたりのことを昶はどう考えているのか、確かめようと思った次第なのだが――

(げっ……)

 笑っていた。おもちゃを目の前にした子供と言うにはまったく可愛げがない、けれど実に楽しそうな笑みだ。

 その表情だけですべてを察し、捺希は深い溜め息をついた。昶がこういう表情をしている時はたいてい余計な首を突っ込むし、自分も巻き込まれるのだ。何度も同じような経験をしてきたから間違いない。

 案の定、昶は美術室の幽霊騒ぎについて探求するようだった。

 

「まずは美術室で何が起きているのか詳しく聞かせてくれ。活動場所を変えるかどうかはそれからだ」

 

「え? でも、藤堂くんすごく嫌そうな顔してない?」

 

「大体いつもこの調子だから気にしなくていいぞ」

 

「は、はあ……」

 

 本当にいいの? とでも言いたげな顔で八嶋が様子を窺ってくる。捺希はもう一度溜め息をつくと、「慣れてるから、おれのことは気にしなくていい。八嶋の好きにしろ」とだけ告げた。昶が興味を持ってしまった以上、捺希が何をしたところで結末は変わらないのだ。それなら、最初から関わっていた方がいろいろと都合がいい。

 八嶋は少しだけ悩む素振りを見せると、

 

「……美術室で奇妙な現象が起こるようになったのは、2週間くらい前からかな」

 

 と、彼らが直面している問題について話し出した。

 

 

 美術部に所属している八嶋は、週に何度か美術室へ出入りしている。普段授業で使う教室とは別の、ほとんど美術部の部室と化している教室だ。

 だから、それがいつから置いてあったのか。正確な日付は誰にもわからない。

 1枚の絵である。

 どこかの風景を描いたらしい未完成の絵が、ぽつんと教室に置いてあるというのだ。

 美術部員たちはその絵について、部員の誰かが片付け忘れたのだろうと考えた。顧問からも授業で使うという話は聞いていなかったのだから当然だ。しかし奇妙なことに、いつまで経っても作者は名乗り出なかった。

 もしかすると、怒られることを恐れて名乗り出られないのでは?

 そんな意見が出たこともあり、その日は結局、普段どおりに部活動が行われた。作者不明の絵は教室の隅にどかされ、帰る頃には絵の存在などすっかり忘れ去られていた。

 

 ――それ以来だ。部員たちが美術室を訪れると、あの時と同じ場所に例の絵が置かれるようになったのは。

 絵を片付けたことを確認してから戸締りしても、なぜかそれは置いてあった。顧問や鍵の管理を任されている教師に聞いてみても、誰かが美術室に出入りしたという証言はない。未だに作者が名乗り出ることもない。その絵は見るたびに加筆されており、誰かが触れているのは間違いないはずなのに。

 

「なるほどな。誰も触れないから幽霊の仕業だと考えたわけか」

 

「うん。しかもその考えをうっかり漏らしちゃった子がいて……もう2週間もこの調子だし、精神的に参っちゃう子もいてね。さすがに放置できないから、君たちと同じクラスの僕が代表して相談に来たんだ」

 

「そうか。事情はだいたい理解した」

 

「じゃあ――」

 

「美術室で何が起きているのか、ちょっと俺たちで調べさせてくれ」

 

 捺希が頭を抱えるのと「え?」と八嶋が呆けた声をあげたのは、ほとんど同時だった。まさか詳細を聞くだけに留まらず、直接美術室の幽霊騒ぎを調べようとするなんて。しかも"俺たちで"という言い方からして、捺希も頭数に含まれているじゃないか!

 もはや何から突っ込めばいいのかわからず険しい顔で固まる捺希を尻目に、昶は勝手に話を進めていく。

 

「ああ、もちろん別の教室を使えるよう先生には掛け合っておく。美術室を留守にする間、少し調べさせてほしいだけだ。どうせ絵は置いていくんだろ?」

 

「まあ、絵まで運び出したら教室を変える意味がないからね。調べるだけなら問題ないと思うし、部長には僕から伝えておくよ」

 

「サンキュ、助かる。それと今日の放課後、問題の絵を見てみたいんだが大丈夫か?」

 

「勝手にものを動かさなければ大丈夫だと思うよ。今日なら部活もないしね」

 

「そりゃ丁度いい。捺希、放課後空けとけよ」

 

「へいへい……」

 

 もうどうにでもなれと、捺希は一際大きな溜め息を吐き出した。この幼馴染みにはもう少しくらい、遠慮という言葉を覚えてほしいものである。