正解のない二択


 俺の雇い主は運転が荒い。

 スピード自体はたぶん適正なのに、これでもかという雑さで停車するしカーブを曲がっていくのだ。おかげで助手席に座る俺は右へ左へぶんぶん揺すられ、ほんの十数分のドライブを終える頃には、気持ち悪さで身動きが取れなくなっていた。

 

「だから仁科さんの車乗りたくないんだよ……っ」

 

 吐き気を抑え、どうにか事務所に辿り着いた俺は応接用のソファに倒れ込んだ。しばらくは一歩も動きたくない。より正確には動けない、と言った方が正しい気もするけど。

 ともあれ、完全にダウンした俺を見て、こうなった元凶である雇い主――仁科香澄さんは「何よ、だらしないわねぇ」と、呆れ顔で言い放った。

 いや、あんたの運転が荒いせいでこうなってんだけど!?

 そんなド正論は声にならない。代わりにじろりと目線だけで訴えてみるが、仁科さんは気にする素振りも見せなかった。それどころか、

 

「ああ、そうだ。さっきの案件、報告書よろしくね」

 

「鬼かよ……」

 

「何か言ったかしら?」

 

「いえ、何も」

 

 はあ、と盛大な溜め息が漏れる。仮にも助手が――車酔いだけど――ダウンしているんだ、雇い主として少しくらい心配してくれても罰は当たらないんじゃないだろうか。

 仕事を投げられてしまったので仕方なしに身を起こすが、やっぱりまだ胃に違和感がある。いい加減、酔い止めを常備しておいた方がいいかもしれない。それかいっそ――

 

「免許取ろうかなぁ」

 

 仁科さんの運転に問題があるのなら、そもそも運転させなければいいという理屈だ。一人暮らしの学生が車に乗る機会なんてほぼないけれど、今後のことを考えるなら十分アリな選択肢だろう。ただ費用の問題があるから、本気で実行するならいろいろ計画を立てる必要はありそうだけど。

 いつの間にか真剣に考え始めていた俺は、仁科さんが隣に移動していることに気付いていなくて。真横から聞こえた落ち着いた声に、心臓が止まるかと思った。

 

「あら。梓、免許取るの?」

 

「どわっ!? に、仁科さんいつの間に……」

 

「梓が免許取るかガチ悩みしてる間に。あと仁科さんじゃなくて香澄さんって呼びなさいよ、何回も言ってるじゃない」

 

「は、はあ……」

 

「で、免許取るの?」

 

 仁科さんがもう一度尋ねてくる。

 この人に隠し事はできないので、俺は素直に頷いておく。

 

「取ってもいいかもなぁ、とは。まあ、お金ないんで来年以降でしょうけど」

 

「お金が必要なら出すわよ?」

 

「…………え? マジっすか?」

 

「うん、マジで」

 

 思わず仁科さんの顔をまじまじと見つめると、きっちり化粧された顔が綺麗な笑みを作る。バイトとして雇われてまだ数ヶ月だが、この笑顔はからかったり冗談を言う時のそれではない……と思う。

 となると、いよいよ仁科さんがお金を出してくれる理由がわからない。家族や恋人ならまだしも、ただのバイトの学生相手にぽんと出す金額ではないだろう。

 

「ええっと……なんでお金出してくれるんですか? 俺、ただのバイトなのに」

 

 一人で考えてもらちが明かないので大人しく尋ねる。仁科さんは少しだけ間をおいて、

 

「必要経費、かしら」

 

「必要経費?」

 

「梓が免許を取ってくれたら任せられる仕事が増えるでしょう? 移動中に依頼人と連絡を取るのだって、わざわざ車を止める必要なくなるし」

 

 なるほど、そういうことか。確かに今まで車が必要な仕事はすべて仁科さんが担当していたし、俺も運転できた方が何かと便利ではある。それらの仕事を片付ける労力だって相当マシになるだろう。必要経費と称するのも頷ける。

 ……と、せっかく納得したのに!

 

「それに、ほら。梓が免許取ってくれたら、ちょっとお酒飲みすぎても迎えにきてもらえるじゃない?」

 

「………………」

 

 とどのつまり運転手である。たぶん、いや絶対こっちが本音だな!? 今度は俺が呆れ顔を向けることになるが、仁科さんは嬉しそうに笑うばかりで意にも介していない。

 ――果たして、免許を取ってまで仁科さんの運転から逃れるべきなのか否か。俺はしばらくの間、「どっちがマシか」の二択で悩む羽目になるのだった。