止まない雪 03


 さくさくと軽い音を立てながら、緩やかな傾斜を登っていく。

 白く塗り潰された山道は誰も通っていないのか、一つの足跡もなく先へ先へと伸びていた。当然踏み固められていないそれは進む足を容赦なく絡め取り、ここまで来るのにずいぶん時間をかけてしまった。

 一瞬だけ立ち止まり、木々の隙間へ視線を流す。覗く町並みが遠い。おそらく、もう少しで山頂に辿り着くはずだ。

 気合を入れるように大きく息を吐き出して、棗は改めて足を踏み出した。

 

 銀華からの依頼を引き受けた翌日のことだ。響也に連れられ、棗は〈凍り岩〉へ向かっていた。無論、雪女に話を聞くためである。

 

(……でも、本当に話なんて聞けるのか?)

 

 降り止まぬ雪について、銀華は雪女が何か知っているはずだと言っていた。彼女の推測はたいていの場合正しいため疑うつもりはないが、果たして雪女と話ができるのか。棗にはそれが気がかりでならなかった。

 というのも、雪女に会いに行くにあたり、銀華はこうも話していたのだ。

 

「〈凍り岩〉の雪女じゃが、仮にこの悪天候に関わっていた場合、おぬしに敵意を向けるやもしれん。何せ、1週間も雪を降らせるほどじゃ。余程のことがあったと考えるべきじゃろう」

 

「……それ、僕が会いに行っても大丈夫なんですか?」

 

「あくまで万が一の話じゃよ。雪女が関わっている証拠は何もないからのう。……まあ、いざという時のために"札"くらいは用意しておくが」

 

 そっとコートのポケットへ手を当てる。手袋越しではほとんどわからないが、そこには確かに、1枚の紙片が入っていた。

 銀華の言う"札"とは、ミミズが這ったような文字が書かれた紙片だった。曰く「あやかしを怯ませるだけの力を持つお札」だそうで、命の危機を感じた時だけ使えと念を押されるほど強力なものらしい。棗と響也にそれぞれ1枚ずつ渡されているが、そこまで言わせる一品ならば使わないで済むことを願うばかりだ。

 

「……もう少しで山頂だね」

 

 少し前を歩く響也の声に顔をあげると、木々の切れ間に広がる灰色の雲が見えた。途端、吹き付ける雪が強くなったように感じるのは、単に木々が途切れたせいか、あるいは――。

 その存在を確かめるようもう一度ポケットに手を触れて、棗は残り数十メートルの斜面を一息に登り切った。

 

 最初に気になったのは誰かのすすり泣く声だった。がらんとした山頂の広場に、その声はむなしく響いている。

 一体、誰が?

 声の主を探そうと辺りを見回すと、人影を捉えるよりも早く、それが目に留まった。

 ゴツゴツとした、分厚い氷の結晶に覆われた岩だ。大きさは棗の身長――男子高校生の平均と同じか、少し小さいくらい。その大きさゆえか、数メートル先でもひんやりとした冷気が感じられる。何百年も前に突如として凍り付き、夏だろうと決して溶けることはない〈凍り岩〉である。

 そして、

 

「君が雪女かい?」

 

〈凍り岩〉の上に、彼女は座っていた。

 胸のあたりまで伸ばされた白い髪に、透き通るような肌を彩る鮮やかな空色の着物。響也の声に振り返ったその瞳は涙で濡れ、瞬きに合わせてはらりと雫がこぼれ落ちた。

 

 思わず「え?」と、小さな声が漏れた。

 雪女と聞いて、まず思い浮かべるのは白い着物姿の美しい女性だろう。語られる逸話は事欠かず、冷たい息を吹きかけて男を凍死させたり、人間の精気を吸い取ったり。ある地域では子供を抱いて現れ、通る人間にその子を抱くよう頼んでくるとも言われている。

 

 それなのに、目の前の彼女はどうだ。

 外見はどう見ても棗と同い年程度の少女。泣いているせいもあってか、とても逸話のように人を襲う種族とは思えなかった。まあ、現代ではその逸話も遠い過去の話ではあるのだが。

 ともあれ、どんなにイメージと乖離した姿だったとしても、振り返ったということは彼女こそが探していた雪女で間違いはないのだろう。

 

「……あなたたち、誰?」

 

 ぎゅっと胸の前で手を握り、か細い声で雪女が尋ねてくる。こちらを見る目は明らかに二人を警戒しているが、やはり危惧していたような攻撃性は一切感じられない。

〈凍り岩〉のギリギリ端まで後ずさった雪女に、響也は優しく笑いかけた。

 

「失礼、自己紹介が遅れました。僕は秋ノ瀬響也、この子は助手の棗。僕たちは町で『あやかし相談所』――あやかし相手の何でも屋のようなものをやっている者です。今日は稲守の土地神さまに頼まれて、あなたに話を伺いに来ました」

 

「土地神さまに?」

 

「ええ。最近、この辺りで雪が降り続いているでしょう? それをどうにかするよう頼まれまして。何か心当たりはありませんか?」

 

 問われた雪女はオロオロと目を泳がせ、やがて困惑しながらも真剣に考え込んだ。

 ずいぶんこちらを警戒していただけに、こうも素直に応じられると逆に不安になってくる。人間に好意的なあやかしも少なくないが、突然話を聞きたいとやって来た人間をここまであっさり信用して大丈夫なのだろうか? 尋ねた側が言うのもどうかと思うが、いささか危機感に欠けているような気がする。

 そんな心配をよそに、雪女はゆるりと首を振った。

 

「特に思い当たることはないわ。私の仲間ならできるかもしれないけれど、今はこの地域にはいないし……私には辺り一帯を雪にするだけの力なんてありませんから」

 

「……そうですか」

 

「お役に立てなくて、ごめんなさい」

 

「いえ。こちらこそ、突然押し掛けてすみませんでした」

 

 結局、雪女にも悪天候の原因に心当たりはないらしい

 こうなるといよいよお手上げだが、一体どうやって解決しろと言うのだろう。ほかに原因になりそうなものを探すのか、それとも雪女の言葉を疑うのか。棗には、雪女が嘘をついているとはとても思えないが――。

 そこでふと、気になった。

 

「ねえ、最後に一つだけ聞かせて。……なんで泣いてたの?」

 

 二人――正確には響也――が頼まれたのはあくまで雪女から話を聞くことであり、彼女が泣いていた理由は聞く必要がない。知ったところで、余計な仕事を増やすだけになるかもしれない。それはわかっていたが、棗の口は勝手に疑問をぶつけていた。

 当の雪女は面食らったように瞬きし、それから眉をさげて笑った。

 

「大事にしていたブローチを、なくしてしまったんです」

 

「ブローチ?」

 

「ずっと昔、大事な人にもらったんです。雪の結晶を模した形で、綺麗な青い宝石がついていて……私にぴったりだと思ったから、と」

 

「宝物なんだ?」

 

「ええ」

 

 それきり、雪女は何もしゃべらなかった。

 きっとブローチを取り戻したいはずなのに。探してほしいはずなのに。悲しそうに微笑む姿はまるで、探すことを諦めてしまっているかのようで。

 

「……帰ろう、棗」

 

「手伝う」なんて無責任な言葉を吐き出す前に、響也に促されるまま山頂を後にした。

 会釈のために振り返った先では、雪女が小さく手を振っている。その表情ははっきりとは見えないが、たぶん、先程までと変わらぬ笑みが張り付いているのだろう。

 前に向き直りしばらくすると、再びすすり泣く声が聞こえ始めた。

 ――心なしか、雪の勢いが増した気がした。


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