「端的に言おう。雪を止ませてほしい」
玄関前で銀華と鉢合わせた、その後。
棗と祈の保護者代わりをしてくれている秋ノ瀬響也に用事があると言う彼女を連れ、二人は自宅に併設された小さな建物を訪れていた。テーブルを挟む形で対面に置かれた二人掛けのソファに、いつから使っているのかもわからない古びたストーブ。あとは飲み物を用意するためのスペースくらいしかない、応接室を丸ごと切り取ってきたような場所だ。
昼間は大体ここに詰めて暇を持て余している響也は、対面に座る銀華の言葉に耳を疑っているようだった。そしてそれは、同席する棗と祈も変わらない。
たっぷりと時間をおいてから、響也は三人を代表して聞き返した。
「……ええと、もう一度お願いします。僕たちに何を頼みたい、と?」
「だから、雪を止ませてほしい。若いのに耳が悪いのか?」
「聞き間違いじゃなかったか……」
深い溜め息を吐き出して、響也はソファに身体を沈めた。まだ話すら聞いていないのに、その姿は既に疲れ切って見える。だが、それも仕方がないだろう。
何せ銀華から持ち込まれたのは「雪を止ませてほしい」だなんて、冗談にしか聞こえない依頼だったのだから。
――あやかし相談所。
それがこの狭い建物の正体だ。その名の通り悩めるあやかしたちから話を聞き、できる範囲の協力をする。いわばあやかし相手の何でも屋だ。様々な制約はあれど、人間とあやかしの共存が成立した現代だからこそやっていける事務所でもある。
ここに持ち込まれる依頼内容は多岐にわたり、失せもの探しに届けもの、時には遊び相手やただ話を聞いて欲しいだけなど、まさに何でも屋と呼ぶに相応しい様相を呈している。その中でも、飛び抜けて厄介な依頼を持ち込むのが銀華だった。
棗たちが暮らす稲守地区の守り神――いわゆる土地神である銀華は、自身の敷地内で異変が起こるたびに相談所を訪れた。その行動は響也を頼るというよりも便利な駒扱いしているだけのような気もするが、少なくとも彼を信頼してはいるのだろう。
ともあれ、今日もこうして無茶な依頼を持ち込んだ銀華は、響也の反応にわかりやすく顔をしかめた。
「なんじゃ、その溜め息は! せっかく依頼を持ってきてやったのに、何か不満でもあるのか?」
「不満なんてとんでもない。ただ……雪を止ませるなんて、僕たち人間にどうこうできる問題じゃないでしょう?」
響也の意見はもっともだ。
有名なものでは雨乞いの儀式、身近なものではてるてる坊主を吊るすなど、天気を変えようと試みる方法は古来より存在している。しかしそれはあくまで神への祈りであり、実際のところ、人間の力でどうこうできる問題ではない。もし仮にそういう儀式を行えと言うのなら、それはさすがにお門違いというものだ。
難色を示す響也に、銀華はやれやれといった風に溜め息をついた。
「確かに、普通の雪なら人間ごときが止ませるなど不可能じゃろう。しかし考えてもみよ。この雪は藤波市、ひいてはここ稲守地区周辺でのみ降り続けておる。まさかおぬし、それを異常気象の一言で済ますつもりではあるまいな?」
そうなのだ。
銀華の言う通り、雪は稲守地区とそれに隣接するいくつかの地域という、ひどく限定的な範囲でのみ降り続けている。本来、藤波市は雪の多い土地ではないため――少なくとも、今回のように連日降り続けることは観測史上例がないらしい――これを異常気象で片付けるのは、確かに少しばかり乱暴かもしれない。しかし、だからといって他の理由に心当たりがあるわけでもない。
すっかり黙り込んでしまったこちらの内心を読むかのよう、銀華は続けた。
「安心せい。妾とて、なんの考えもなしに無茶な依頼を持ってくるほど鬼ではない。――妾は、雪女が何か知っているのではないかと思っておる」
「雪女……って、あの雪女ですか?」
「うむ。稲守北部の小さな山に〈凍り岩〉と呼ばれる岩があるのは知っておるか? 今くらいの時期になると、そこに雪女が姿を見せるのじゃ。一介の妖怪といえど、雪女の手にかかれば雪を降らせるくらいは容易い。おまけにあの辺りはちょうど、雪の中心地にも近いからのう。直接の原因でなくとも、彼女が何か知っている可能性は十分にある」
「つまり僕たちで雪女に話を聞いてこい、と」
「まあ、端的に言えばそうじゃな」
銀華はあっさりと頷いた。つまりは体のいい使い走りである。
「……そこまでわかってるなら自分で行けばいいのに」
思わず本音が口をついて出た。
別に棗も、文句を言いたいわけではない。ただ単に話を聞いていて、自分で動いた方が早いのではないかと思っただけだ。
ストーブの稼働音に紛れてほとんど掻き消えたそれを耳ざとく聞きつけ、銀華は「わかっとらんのう」と首を振った。
「妾は稲守の土地神じゃぞ? 土地神とは土地を守る者。そう簡単にこの地を離れるわけには――境界を越えるわけにはいかんのじゃ」
「境界?」
「近隣地域との境目、ようは妾が土地神でいられる範囲じゃ。うっかりこの境界を越えようものなら、妾は普通の人間と変わらぬ存在になってしまう。そうなっては、この地を守ることができぬじゃろう?」
〈凍り岩〉がある山は稲守北部、隣接する複数の地区に跨る形で存在している。人々の生活する地域ならともかく、山の中ではおおよその境界すら判断がつかないだろう。そんな場所へ出向いて、もし境界を越えてしまったら。
どうやら棗が思っている以上に、銀華はこの土地を愛してくれているらしい。
「納得したか? 棗」
「……はい」
「よろしい。では、改めて言おう」
一度言葉を切って、銀華はじぃっと響也の目を覗き込んだ。
その金色の瞳は、まるで不思議な魔力でも孕んでいるようで。隣に座る棗まで、思わず息を呑んでしまった。
「――雪を止ませてほしい。頼めるか?」
繰り返された依頼は疑問形こそ取っていたものの、有無を言わさぬ雰囲気をまとっていた。果たして、この状況で断れる人などいるのだろうか。
「……わかりました」
長い長い溜め息を吐き出して、響也はゆっくり頷いた。
はじめからこうなることが見えていただけに、ずいぶんと遠回りをした気分だった。