隣室から謎の音がする。
そんな些細な出来事をきっかけにある事実を教えられて以来、問題の隣人――九十九雅との関係は深まる一方であった。朔真としてはあまり関わりたくないのだが、何かと向こうがちょっかいをかけてくるのだからどうしようもない。
「松原くん、ちょっといいかい?」
静かな図書館内では聞き間違えようもない声に、朔真は人知れず大きな溜め息をついた。休日ならともかく、まさか平日の職場で遭遇することになろうとは。
無視することもできず渋々振り返ると、予想通りの人物がそこにいた。ミルクティー色のくせっ毛に、夏の青空みたいな綺麗な色をした目。甘いマスクにいい加減見飽きてきた爽やかな微笑みを張りつけた男は、言わずもがな、九十九雅である。
「…………なんの用ですか」
「ちょっと探している本があってね。検索したら貸し出し中みたいだから、返却されたら連絡もらえないかなと思って」
「なんでわざわざ俺に……カウンターに他の司書いますよね?」
「それはそうだけど、松原くんに頼んじゃ駄目って決まりもないだろう? 君もここの司書なんだし」
「…………手続きするんで来てください」
今度は隠すことなく溜め息をついて、朔真は雅を連れてカウンターへと向かった。こうなったら手早く仕事を済ませ、一刻も早く帰ってもらおう。それが一番いい。
雅に話しかけられないよう足早にカウンターまで移動すると、朔真は空いていたパソコンの前に座り、仏頂面のまま尋ねた。
「で、探してる本のタイトルは?」
「現代における黒魔術について」
「……は?」
「だから『現代における黒魔術について』っていう本を探してるんだよ」
一瞬聞き間違いかと思ったが、そういうわけではないらしい。まあ、雅は事故物件に好きで住んでいるような人間だ。オカルト全般に興味でもあるのだろう。それにしたって、こんな胡散臭い本が貸し出し中で、そこへもう一人借りたい人が現れる状況なんてそうそうないとは思うが。
珍しいこともあるものだな、と思いつつ聞いたタイトルを検索する。
「……あれ?」
ヒットした結果を見て朔真は僅かに眉を寄せた。
「どうかした?」
「あんたが探してる本、返却期限とっくに過ぎてるみたいなんですよね」
パソコン画面に表示された情報によると、雅が借りたいという黒魔術の本の返却期限は3週間も前に切れていた。ここの図書館では返却期限を2週間超過した時点で催促の電話をかけ始める決まりになっているが、どうやらこの人には効果がないらしい。1週間も催促を無視していることを考えると、返却を待つより近隣の図書館から取り寄せた方が早いのではないだろうか。
その旨を提案しようとした時、ぽん、と誰かに肩を叩かれた。開きかけた口からは、提案の代わりに「おわっ」と間抜けな声が漏れる。気恥ずかしさを隠すように背後を睨みつけると、そこには涼しい顔をした同僚が立っていた。
「話しかけるなら普通に話しかけてくださいよ……っ」
「松原が勝手に驚いただけだろう? それより、森田さんがどうしたのさ」
「森田?」
「その本を返さない人」
同僚がパソコンの画面を指さす。どうやら催促に応じない借り主は森田と言うらしい。名前を把握しているということは、催促の電話をかけているのは彼女なのだろう。
朔真が軽く現状を説明すると、普段はあまり変わらない同僚の表情が微かに動いた。あまりにも変化が小さすぎて感情までは読めないが、猛烈に嫌な予感がする。
そして、その嫌な予感は的中した。
「だったらさ、ちょっと取り立てて来てよ」
「はあ!? 絶対嫌ですよ。そもそも本の取り立てとか、俺たちの仕事じゃないと思いますけど」
「そうは言うけど、期限超過してもう3週間だぞ? ここ1週間、毎日催促の電話をかけているのに応じる気配もないし。この調子じゃ、直接行かなきゃ絶対に返って来ないね」
「まあ、返って来ないって意見には同意しますけど。だったらあんたが自分で行けばいいでしょ」
「それは嫌だよ。面倒くさい」
「おまっ……その言葉、そっくりそのまま返します」
どうもこの同僚は、厄介な仕事を後輩である朔真に押し付けたいようだ。朔真にも割り当てられた業務はあるのだから、これ以上仕事を増やすのはやめて欲しいものだ。そもそも何度だって主張するが、本の取り立ては司書の仕事に含まれていない。面倒な気持ちは痛いほど理解できるが、自分たちにできるのは催促の電話をかけ続けることだけだ。
しかし、朔真は一つ忘れていた。今この場には、厄介な人間がもう一人いることを。
「本を直接回収しに行くなら、僕もついて行っていい?」
「は!? だから行かないって……」
「ああ、ぜひそうしてくれ。松原一人で行かせたら、時間だけ潰して帰ってきてしまうかもしれないからね」
「いや、だから俺の話を」
「森田さんの家って徒歩で行ける場所なんですか?」
「この住所だと……うん、歩いて20分くらいかな。必要な情報を書き出してくるから、少し待っていてくれ」
「ありがとうございます」
「もう嫌だ、この人たち……」
取り立てに行かされる張本人を無視して話を進める二人に、朔真は頭を抱えたくなった。やっぱり、この隣人に関わるとロクなことがない。