月明かりの幸福


 その町には〈月光樹〉と呼ばれる大樹がある。

 晴れた月夜の晩にだけ花を咲かせる不思議な樹で、それは人々の幸福の象徴となっているという。中でも満月の晩に咲く花はひと際美しく、見た者には幸運が訪れる――なんて噂まであるそうだ。

 旅の途中、ちょうどその噂を耳にした少年は、旅の仲間である青年のマントを引っ張った。

 

「ねえねえ、アルにぃ。月光樹だって! ここから近いみたいだし、見に行ってみようよ」

 

「月光樹か……そうだな、俺も興味あるし行ってみるか」

 

「アルにぃが興味持つなんて珍しいね。やっぱり植物だから?」

 

「ああ。月光樹は世界中探してもあの町にしかないらしくて、一度自分の目で見てみたかったんだ」

 

「へえ、そんなに珍しい樹なんだ」

 

 幸運の噂が囁かれるほど美しい花なら見てみたい。少年としてはその程度の軽い気持ちだったのだが、まさか世界に一本しかない樹だったとは。青年の答えに俄然興味が湧いてくる。

 

「アルにぃ、早く行こう!」

 

 期待に目を輝かせ、少年はマントの下に隠れた大きな手を掴んだ。そして、早く早くとその手を引く。

 

「わかったから、あんまり引っ張るな」

 

「ごめんなさーい」

 

 えへへと笑い、ゆっくりと歩き始めた青年の隣に並ぶ。その間も、手は握ったまま離さない。いくら旅人として経験を重ねたところで、結局まだまだ甘えたい年頃なのだ。

「どんな花が咲くのかなぁ……」

 幼い旅人は楽しそうに呟いて、まだ見ぬ月光樹に思いを馳せるのだった。

 

***

 

 この世界には、様々な特徴を持った都市が点在している。ある都市は魔法で繫栄し、またある都市は機械技術が生活を支える。それらはまったく違う景色を有し、一歩足を踏み入れるだけで、文字どおり別世界を見せてくれる。

 一つの都市の中だけで生涯を終える者も少なくない昨今、その魅力は並々ならぬものがあるのだろう。危険を承知で世界を旅する者は意外と多い。

 この幼い旅人――オズもまた、その景色に魅了された者の一人だ。

 

 元々はある人物を探すため、当時から世話になっていたアルベルトと共に旅へ出たのだが、今となっては旅そのものが目的となりつつあった。もちろん彼を探すことを忘れた日はない。行く先々で情報集めもしている。しかし彼も各地を移動している可能性が高い以上、再会するには運も必要なわけで。

 ――彼を見つけることばかり考えていたら、こちらの方が先に疲れてしまう。だからいっそのこと、旅のついでに探すくらいでいいんじゃないか?

 ある時アルベルトにそう助言され、オズはそれを受け入れた。自分が旅に疲れてしまったら、旅を嫌いになってしまったら意味がない。きっとあの人は、そこまでして探されることを望んではいないはずだから。

 

 ともあれ。目的地である月光樹の町に辿り着いた二人は、予想以上に大きなそれを見上げて感嘆の息を吐いた。

 月光樹である。

 町のほぼ中央にそびえる太い幹は直径5メートルを優に超え、無数の枝は日が暮れ始めた空を覆い隠さんばかりに広がっている。じっと見つめていると樹に食べられてしまうのではないか? と錯覚しそうになるが、それはもしかすると葉も蕾もついていないせいかもしれない。

 

「夜になったら、これに花が咲くんだよね?」

 

「ああ。確かもうすぐ満月だし、いい時期に来たな」

 

「そうだね。……でも、ボクちょっと気になることがあって」

 

「気になること?」

 

 アルベルトが聞き返すと、オズは頷いてからちらりと周囲に目をやった。完全に日が暮れる前ということもあり、月光樹を見にきている人はほとんどいないようだ。これなら誰かに聞かれることはないだろう。

 とはいえ、あまり大声で話すような内容でもない。オズはアルベルトを手招きした。あまりにも身長差がありすぎて、屈んでもらわないと内緒話ができないのだ。

 普段からそうしていることもあり、正確に意図を汲んだアルベルトはオズの傍にしゃがみ込むと顔を近づけた。

 

「で、気になることって?」

 

「なんか……ここの人たち、元気なくない?」

 

 町に着いてから、二人はまっすぐ月光樹を目指してきた。つまりは町中を突っ切ってきたことになるのだが、そこで見かけた人々の表情がどうにも暗かった気がするのだ。幸福の象徴とまで言われる樹がある町だから、てっきり平和で和やかなところだと思っていたのに。

 話を聞いたアルベルトは少しの間をおいて、やがて小さく頷いた。

 

「言われてみると、浮かない顔をしている人が多かったな」

 

「何かあったのかな? ……魔物の被害とか?」

 

「それにしては物々しい雰囲気は感じなかったような……まあ、気になるなら誰かに聞いてみたらいいんじゃないか? オズにできるなら、だけど」

 

「…………アルにぃのいじわる」

 

 目の前でにやにやと笑うアルベルトをじとりと睨めつける。人見知りが激しくて、普段あの人のことを聞くだけでも精いっぱいだとわかっているくせに!

 すっかり拗ねた様子のオズの頭を「悪かったって」と、アルベルトが撫でる。子供扱いされているようで気に食わないのに、彼に撫でてもらうこと自体は好きなのだから複雑な気分だ。

 

 結局手を跳ねのけることはできなくて、ひととおり構ってもらってから月光樹をあとにした。この頃にはますます日が傾いていて、いい加減宿屋を探さないとまずい時間だった。

 二人は足早に市街へ戻り、ぱっと目に付いた宿屋に泊まれるかどうか確認を取る。幸い空き部屋があったようで、ひとまず野宿だけは避けられそうだ。

 

 ほっと安堵の息を吐く二人は、その宿屋で気がかりの原因を知ることとなる。