ガタン、ゴトン――
身体に伝わる振動と、鼓膜を叩く規則的な音で目が覚めた。
一体、いつの間に眠っていたのだろう? 重たい瞼を何度か上下させ、ぼんやりとした意識に覚醒を促す。霧でもかかったような視界はたっぷり数十秒をかけ、少しずつ晴れていった。
まず真っ先に目に入ったのは、青い天鵞絨を張ったやわらかそうな座席だ。二人掛けのものがちょうど目の前に見える。自分が座った状態ということは、向かい合わせで並んでいるのだろう。今もなお聞こえる規則的な音と振動から察するに、おそらくここは電車の中――いや、汽車と呼んだ方が正しそうな場所だ。等間隔に並ぶ電燈もレトロという言葉を想起させるし、少なくとも電車と聞いて想像するであろうそれとは何かが違う。それだけは間違いない。
問題は、どうして自分が汽車に乗っているのかだ。普段の生活圏で汽車なんて見たことがないし、そもそも自分は――あれ? どこで何してたんだっけ?
目を覚ます前、自宅を出て以降の出来事を思い出せないことに気が付いて、高千穂智隼の意識は完全に覚醒した。
……おかしい。記憶力に自信があるわけではないが、さすがに今日のことすら思い出せないほど酷いつもりはない。1週間は言い過ぎだとしても、2~3日前くらいなら余裕で遡れるだろう。というより、実際きのうより前のことはある程度思い出せる。それなのに。なぜか今朝のことだけは、記憶を切り取られてしまったかのように何も思い出せなかった。
(寝起きで記憶が混乱してる……わけでもないよなぁ)
自宅を出たということは、どうせ大学へ向かったのだとは思うのだが。意図的に消去されたような違和感が、ただただ気持ち悪い。
「……ま、気にしても仕方ないか」
ふぅ、と息を吐き出し気持ちを切り替える。どうして汽車に乗っているのか気になるところではあるが、このまま考え続けて答えが出るとは思えない。だったら、現状の把握に努めた方が賢明だろう。
そう考えてはじめて、智隼は車窓の外を認識した。
星空である。
宝石を散りばめたような星々が煌めく濃紺の夜空が、見渡す限り一面に広がっている。思わず車窓に張り付く勢いで眺めるも、見えるのはどこまでも続く美しい星空のみで。信じられないことに、汽車は夜空を走っているらしかった。
ああ、もしかして夢なのか?
あまりにも非現実的な光景に、智隼はそう結論を出した。だって普通、汽車は空を飛んだりしない。それに、そう考えれば見知らぬ汽車に乗っている理由も一応は説明がつく。夢ならどこで、何をしていても不思議ではないだろう。
ひとまずそう自分に言い聞かせ、智隼は改めて車両内を見回した。自分が座っていたのと同じ青い天鵞絨を張った対面の座席が、通路の両脇に並んでいる。それ以外に目立ったものは特になく、所感としてはごく普通の――といっても、智隼は実際に汽車を見た記憶がないのだが――汽車である。
「……誰かいる?」
どこか懐かしさを覚えるこの場所で自分以外の存在を発見したのは、隣の車両に移動でもしようかと思い立った時だった。座席の背もたれから、人間の頭らしきものが覗いていたのだ。
てっきり自分しかいないのだと思い込んでいたが、そういうわけでもないらしい。智隼は念のため慎重に歩みを進め、そこに座っていると思しき何かの正体を確かめに向かった。
「あれ? こいつって確か……」
詰襟のシャツに着物と袴姿――ちなみに足元は下駄ではなくブーツのようだ――いわゆる明治期の書生服に身を包んだ青年が眠っていた。少し伸ばした銀髪はみつあみにしており、その下に覗く肌は病的なまでに白い。そしてその顔は、眠っていてもわかるくらいには整っている。
いささか時代錯誤な、けれどこの場には大変馴染む格好の青年に、智隼は見覚えがあった。
淡島幸。智隼と同じ星杜大学文学部の1年生。話したことは一度もないが、いくつか講義が被っていたのを覚えている。幸は大学でも大体この格好だから、どうも無意識に視線がいってしまうのだ。現代において書生服というのはやはり目立つ。
それにしても、これは一体どういう状況だ?
目を覚ます気配のない幸を前に思案する。まさか智隼だけが一方的に知っている相手が夢に出てくるなんて。こういうのは普通、知り合いが現れるものじゃないのか?
突如乱入してきた同級生の存在に困惑しつつ、智隼はそっと幸の華奢な身体へ手を伸ばした。どうして幸なのかは知らないが、見つけてしまったからには無視できない。ここは汽車探索の道連れになってもらおうじゃないか。
「おーい、淡島?」揺すりながら声をかけてみる。幸は小さな声を漏らし、ゆっくりと目を開けた。隠されていたスカイブルーが露わになる。
「あ、起きた」
「…………誰ですか?」
目を覚ましたかと思いきや、開口一番これである。まあ、向こうは智隼のことなど顔も知らないだろうし当然の反応ではあるが。
智隼は苦笑しつつ、幸の対面の座席に腰をおろした。
「俺は高千穂智隼。あんたと同じ星杜大学文学部の1年。一応、いくつか講義被ってんだぜ?」
「へぇ、そうですか」
「興味なさそうだな」
「ええ、まあ。この汽車の方が余程興味深いですね」
バッサリと切り捨て、幸は車窓の外へと目をやった。夜空を走る汽車が珍しいのは認めるが、もう少しくらいコミュニケーションを取れないものだろうか。バレないよう密かに溜め息をつき、智隼は「そういえば」と続ける。幸に話す気がないのなら、こちらから話すしかあるまい。
「淡島はさ、目覚ます前どこで何してたか覚えてる?」
「……はい? なんですか、突然」
「ああ、いや。今朝家を出たところまでは覚えてるんだけど、そのあとのことが全然思い出せなくてさ。どうにもモヤモヤするというか、違和感があるというか……この感覚って俺だけなのかなと思って」
智隼の中でずっと引っかかっていたことだ。確かに今置かれている環境――夜空を走る汽車は、夢の中でしか有り得ない景色だろう。しかし五感はやけにリアルだし、記憶も意識も鮮明だ。おまけに話したこともない幸が目の前にいて、こうして会話も成立している。ここまで来ると記憶が抜け落ちている間――つまり今朝方、何かに巻き込まれたんじゃないか? そんな疑惑が頭の片隅をちらつき始めていた。
智隼の問いかけに、幸は今朝のことを思い出しているのだろう。少しの間考える素振りを見せ、やがて小さく首を振った。
「駄目ですね。僕も今朝の時点で記憶が途切れています。まるでそこだけ切り取られたような……気持ち悪さがある」
「淡島もか。やっぱり夢じゃないのか……?」
「さあ、どうでしょうねぇ。夢かどうかを確認する方法なんてありませんから」
「まあな」
幸も言うように、いくら疑念を抱こうとそれを確認する術はない。今の智隼にできることがあるとすれば、通常の手段では来れないであろうこの場所が一体どこなのか。それを調べることくらいだろう。何せこれが夢ではなかった場合、自力で帰る方法を見つけなければ、幸共々この汽車に閉じ込められてしまうのだから。そんなの絶対に御免だ。
「――よし! とりあえず動くか!」
気合いを入れるためにそう声に出し、智隼は座席から立ち上がった。やることが一つしかないのなら、行動は早い方がいいだろう。
「……何をするつもりですか?」
「汽車の探索。夢であろうとなかろうと、それくらいしかやることないし。淡島も行くよな?」
「さも当然のことのように言わないでくれます?」
「でも行くんだろ? 汽車には興味あるみたいだし」
にやりと意地悪く笑って言ってやれば、幸は不服そうに頷いた。顔にはありありと「余計なこと言うんじゃなかった」と書かれている。
それには気付かないふりをして、智隼は幸と連れ立って隣の車両へと向かった。