心地よい揺れがバス全体を包み込んでいる。
ふわふわと夢の世界へ手招きされる感覚に、森崎伊純はこっそりとあくびを噛み殺した。
「眠そうだね、伊純。あとちょっとだから寝ちゃ駄目だよ」
「う……わかってるよ、大丈夫」
うまく隠したつもりだったが、隣に座る友人にはすっかりバレていたようだ。からかう響きを多分に含んだ声音で指摘され、伊純は逃げるように窓の外へ目をやった。
いつの間にかバスは高台を走っていた。
眼下に見える町並みは僅かに遠く、さらに奥には日の光を反射して輝く海と澄んだ青空が広がっている。すっかり見慣れた、伊純の大好きな景色だ。
『次は終点、透海天文台前広場です』
静かな車内にアナウンスの声が響く。
「ああ、もう次か」という呟きと、次いで降車ボタンの押される音がした。
「よかったね、これ以上眠くなる前に着いて」
「その話はもういいってば……!」
「ごめんごめん! けど珍しいよね、伊純がそんな眠そうなの。寝不足?」
「……実はきのう、万里と映画観てて。気付いたら夜中の1時だったんだよね」
「……なんていうか、伊純ってそういうところ抜けてるよね」
まあ、その方がらしいけど。
そう言って、彼は自身の象徴ともいえる鮮烈な青を細めた。それが駄目押しのように気恥ずかしさを掻き立ててきて、伊純は再び目を逸らした。
***
――事の発端は10日前。一人の女子生徒が、とあるチラシを持ってきたことに始まる。
美潮第二高校でスクールカウンセラーとして勤務する伊純は、その穏やかな性格が好かれているらしく、相談ではなく雑談という形で生徒たちと接する機会がたびたびあった。確か、チラシを持ってきた生徒もその中の一人だったように思う。
ともあれ、ある日の昼休み。その生徒は利用者のいない相談室へ駆け込んできた。
「ねえねえ、伊純先生! 先生って確か、天文好きだったよね?」
「うん、そうだけど……それがどうかしたの?」
「これ、興味あるかと思ってもらってきたの。あげる!」
生徒に手渡されたのは、近くの天文台が一般開放されるという案内だった。伊純も昔、どこかの天文台まで見学に行った覚えがある。
「へえ、天文台の一般開放か。懐かしいなぁ」
「行ったことあるの?」
「どこかは忘れちゃったけど、小さい頃にね」
「先生は昔から天文好きなんだね。ズバリ、好きになったきっかけは?」
「え? うーん、なんだったかな……」
正直なところ、気が付いたら好きになっていたという感覚しかなくて、何かあったかなと伊純は首を捻る。しかし答えが出るよりも先に、無情にも昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴ってしまった。そういえば、彼女が駆け込んできたのは昼休みが終わる間際だった気がする。
「残念、予鈴鳴っちゃったね」
「友達と話してて来るの遅くなっちゃったからなぁ……もっと話聞きたかったのに」
「また今度おいで。相談者がいなければ話し相手になってあげるから」
「その時はさっきの答え、教えてね!」
「覚えてたらね」
ほら、早く教室に戻りなさい。
そう言って優しく背中を押せば、生徒は渋々ながらも相談室を後にした。
先程までの騒がしさが嘘のように室内が静まり返る。伊純が一つ息を吐き出すと、ずっとタイミングを窺っていたのだろうか。教室を二分するパーテーションの向こうから、見慣れた男が顔を覗かせた。
「いやぁ、嵐みたいな子だったね。俺がいるのも気付いてなかったし」
「そんなこと言って、天音くん、自分から隠れてたじゃないか」
「あ、バレてた? でもほら、あの子伊純に用事があったみたいだし。部外者は隠れてた方が何かとスムーズに進むかな、と思って」
へらりと笑ってみせたのは、ここの学校司書をしている立羽天音だ。毎週決まった曜日になると相談室を訪れる彼は、伊純にとって同僚というより友人に近い。実際、学校の外でも何かと顔を合わせる間柄ではあった。
天音は伊純の持っていたチラシを覗き込むと、その目を好奇心で輝かせた。
「へえ、天文台に入れるんだ。なんか面白そう」
「興味あるなら一緒に行く? 来週の土日みたいだけど」
「いいの? 来週なら暇だし行きたいな。日程は伊純にお任せで」
流れるように丸投げしてくる天音に、思わず苦笑いが漏れた。まあ、下手に日時を指定されるより余程予定を立てやすくはあるのだが。
「仕方ないなぁ……」とわかりやすい溜め息をついて了承すると、天音は満足げに笑った。
そうして、伊純の独断で決められた日程は土曜日の昼過ぎだった。
終点に着いたバスからは、二人を含め数人の乗客が吐き出された。おそらく、彼らも同じ目的でここまで来たのだろう。
「結構お仲間さんいる感じ?」
「みたいだね」
広場よりさらに上――透海天文台へ向かう人々の後を追い、二人もゆっくりと歩き出す。午後の日差しはちょうどいい暖かさで、先ほど指摘されたばかりだというのにまたあくびが漏れそうだ。
「眠くなる日差しだねぇ」
隣を歩く天音がニヤニヤといたずらっぽい目で言ってくる。その表情がなんだか無性に腹立たしくて、伊純は無言で彼の背中を叩いた。