悪い夢を見たので


 ――ひとりにしてごめんね、蛍。

 

 当時は聞き取れなかった母親の声で、望月蛍は飛び起きた。

 ひゅぅ、ひゅぅ、と浅く乱れた呼吸が暗い部屋を満たす。息が、胸が苦しい。蛍はぎゅっと毛布を握りしめ、なんとか落ち着こうと必死に呼吸を繰り返した。

 

 まただ。またあの日の夢だ。

 蛍がまだ中学生だった頃、両親は殺された。恐怖で動けなくなった自分を庇ったせいで。

 その時の光景は未だ夢に見るくらいには強烈で、じわじわと暗がりから蛍を追い詰める。お前のせいで両親は亡くなったのだと。お前があの場にいなければ、二人が亡くなることもなかったのにと。実際は誰にも言われていないのに、この夢を見るたび、後ろ指をさされている気分になるのだ。

 

 しばらくして呼吸が落ち着いてくると、蛍はベッドから抜け出した。覚束ない足取りで暗闇を進み、こっそりと部屋の外の様子を窺う。

 ひどく静かだった。明かりの類は何も点いておらず、カーテンの隙間から差し込む青白い光だけが、薄らと家具のシルエットを浮かび上がらせている。もしかしたら同居人が起きているかも――なんて淡い期待を抱いていたが、さすがに寝ているらしい。

 

(いつもなら結構夜更かししてんのになぁ……)

 

 こういう時に限って寝ているのだから、タイミングが悪いというか運がないというか。

 少しの間考えて、蛍は壁伝いにゆっくりと歩き出した。目指すは同居人である灯の部屋だ。自室とは隣同士だし、幸い夜目も利く方なので電気は点けなくても大丈夫だろう。今はどうしても、彼に隣にいてほしかった。

 

(お邪魔しまーす……)

 

 起こさないよう心の内で挨拶し、音を立てずにドアを開ける。目を凝らしてベッドを確認すると、僅かに上下する膨らみが見えた。

 自分以外の誰かがそこにいる。その事実だけで、ほっと安堵の息が漏れた。

 

「……灯ちゃん」

 

 早く。早くその温度に触れたい。

 無意識のうちに足が動く。ベッドへ向けて、まっすぐに。

 

「灯ちゃん」

 

 もう一度名前を呼んで、そっと手を伸ばす。

 瞬間、暗闇でもなお目立つ真っ赤な瞳と視線がかち合った。

 

「どわっ!?」

 

 思わず手を引っ込め、時間も気にせず悲鳴をあげてしまった。てっきり寝ていると思っていたのに、まだ起きていたのか。いや、普段の生活リズムを考えるに、ちょうど寝ようとしたところだろうか? どちらにせよ、ドアを開けた時点で蛍の来訪には気付いたはずなのだから、もっと早く声をかけてほしかった気もする。

 先ほどまでとは違う意味で早鐘を打つ心臓を抑え、蛍はなんとか声を絞り出した。

 

「灯ちゃん、起きてたの?」

 

「ああ。古い友人が、なかなか電話を切ってくれなくてね。ようやく眠れると思ったらお前が来た」

 

「ぐっ……オレだって、別に好きで来たわけじゃねえよ」

 

「わかってるよ。またあの夢だろう?」

 

 そう言いながら布団を持ち上げてくれるので、遠慮なく潜り込む。ようやく眠れるという言葉通りベッドに入って間もないのか、中はあまり温かくはない。だが、今の蛍が欲しているのは彼の身体に宿る熱だ。多少布団が冷たくても問題はなかった。

 

(やっぱここが一番落ち着くんだよな)

 

 もぞもぞと布団の中を動き回り、灯の胸元に身を寄せた。ひとりになりたくない夜、一緒に寝る時の定位置だ。

 蛍がこの位置に収まると、灯はいつも髪を梳いてくれる。単に手持ち無沙汰なだけかもしれないが、蛍はその優しい手つきが大好きだった。

 

「あの夢を見るとさ、どうしても考えちまうんだ。オレが一緒にいなければ、二人は死なずに済んだんじゃないかって」

 

「……そうだな。そういう未来はあったと思う」

 

「否定しないんだ?」

 

「事実ではあるからな。お前に嘘はつきたくない」

 

「ふは、灯ちゃんのそういうところ好きだよ」

 

「それはどうも」

 

 先ほどまではあんなにも不安だったのに、気付けば自然と笑みがこぼれるようになっていた。やはり灯の隣は安心感が違うらしい。

 

「けどまあ、お前が気に病むことは何もないよ。そもそもの話、犯人が暴れなければあんな事件は起きなかったんだからな」

 

「うん」

 

「それに、俺もあの人たちも絶対にお前を恨んだりしない。責めることもしない。だからどんな夢を見ても、誰に何を言われても気にしなくていい。何も知らない他人の言うことなんて、信じなくていいから」

 

「……うん。ありがと、灯ちゃん」

 

 そのまま灯の胸に顔を埋め、そっと目を閉じる。

 彼らは自分を恨むことも、責めることもしない。頭ではわかっていても、本当に? 優しいから口にしないだけで、本心では蛍のせいだと思っているんじゃないか? と、疑ってしまう自分がいた。だって、両親が蛍を庇って亡くなったことは紛れもない事実だから。

 ――でも、だからこそ。今こうして言い切ってくれたことが、蛍は何よりも嬉しかった。心にこびり付いた罪悪感をすぐに溶かすことはできないけれど、その言葉は確かに、蛍の心を救うだけの力を持っていた。

 

「眠れそうか?」

 

「おかげさまで」

 

「それは何より」

 

 ぎゅっと灯の服を掴み、呼吸を整えていく。彼が傍にいる安心感と人のぬくもりは、隠れていた眠気を引っ張り出すには十分だ。

 

「おやすみ、蛍」

 

 優しい声に誘われ、蛍の意識は再び眠りに落ちていった。