小さな春の訪れ


 1年を通して各地を旅していると、改めて日本の四季は美しいのだなと気付かされる。夏は太陽に見つめられた新緑が輝いて、秋は色鮮やかな紅葉が世界を彩る。冬は降り積もった雪がすべてを白く染め、そして春になると――

 

「湊人さん、湊人さん! あそこ見てください、もう桜咲いてるっすよ!」

 

 助手席に座る陽介は声を弾ませ、ハンドルを握る湊人の服を引っ張った。今に始まったことではないため動じたりはしないが、運転中に注意が逸れるようなことをするなと、一体何度言えばわかってくれるのだろうか。

 湊人はあからさまな溜め息をつき、それを抗議の代わりとした。

 

「陽介。運転中なんだけど」

 

「……あっ! またやっちゃった。ごめんなさい、湊人さん」

 

「そろそろ学習してよね。事故ったらお互い困るんだから」

 

「はぁい。でも湊人さんの運転丁寧だし、この程度じゃ事故らないっすよ!」

 

「君がそれ言うの?」

 

 はあ、ともう一度溜め息がこぼれる。信頼してくれるのは嬉しいが、まったくもってそういう問題ではない。そもそも湊人の運転が丁寧なのも、ちょっとのことでは注意が逸れないのも、彼の命を預かっているからだ。普段の運転はもっと荒い自覚がある。どれだけ大事にしているか知りもしないで、実にのんきな男である。

 

「それより湊人さん。桜っすよ、桜! マジで綺麗なんでどっかで車止めましょう!」

 

「できるならそうしたいけど、止める場所が見当たらないんだよね」

 

「このへん、駐車場とかなさそうっすもんね」

 

「陽介が見たのってどこの桜? 人が集まる場所なら近くに駐車場あるかも」

 

「確かに。ちょっと調べて……あ! もうちょっと行ったところにコンビニあるみたいっすよ! あそこで1回車止めません?」

 

「コンビニ?」

 

 ちょうど信号に足止めされたため、陽介が指さす先を視線で追いかける。言われてみれば、進行方向に見慣れた看板がある……ような気がする。湊人の視力でははっきり確認できないが、陽介が「ある」と言うのならあるのだろう。

 

「本当に目がいいね、陽介は」

 

「えへへ、昔から目だけはいいんすよね。あと運動神経!」

 

「つくづく僕とは逆のタイプだよね」

 

「そうは言っても、湊人さんって運動神経悪くはないっすよね?」

 

「あくまで人並みってだけだよ。決して得意ではないし」

 

「センスありそうなのに」

 

「残念ながら、僕にやる気がない」

 

「ふは、じゃあ仕方ないっすね!」

 

 気付けば信号は青に変わり、緩やかに流れ始めた景色の奥にコンビニの看板が見えた。よくもまあこの距離から見えたものだと感心しつつ、要求通り駐車場に愛車を滑り込ませる。以前は何かと苦戦していたキャンピングカーの駐車も、今ではすっかり手慣れたものだ。

 駐車場の隅に車を止めると、すぐさま陽介の手がカーナビへと伸びた。町並みに紛れ込んだ春を探すため、走ってきた道を遡るように地図を動かす。

 

「うーん……あ、もしかしてここっすかね?」

 

 ある程度遡ったところで、陽介はピタリと手を止めた。画面を覗き込んでみると、途中で通り過ぎた自然公園周辺の地図が表示されている。結構な敷地面積がありそうだし、確かにここなら桜が咲いているかもしれない。

 

「そういえばこの公園の名前、標識でも見た気がする」

 

「検索した感じ、桜の名所みたいっすね」

 

「じゃあ、探してたのはここかな」

 

「たぶん。……湊人さん、」

 

 名前だけ呼んで、じぃっと陽介が見つめてくる。付き合って数年も経つと、何が言いたいのかは目を見るだけでわかった。

 仕方ないなと息を吐いて、湊人はひとつ頷いた。

 

「見に行きたい、って言うんでしょ? いいよ。今なら仕事も入ってないし」

 

「やったぁ! そしたらコンビニで買い出ししてお花見っすね! お酒はなしっすか?」

 

「近くに車中泊できる場所があるならいいんじゃない?」

 

「もしかして、湊人さんも花見酒したいんすか?」

 

「まあ、たまにはね」

 

「そしたら車中泊できる場所、探さないとっすね。どっかあるかなー」

 

 スマホ片手に検索し始めた陽介の方から、ご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。ひとまず駐車場探しは彼に任せておくとして、こちらは少し休ませてもらおう。ずいぶん慣れてきたとはいえ、運転していると勝手に疲れは溜まっていくものだ。

 少しだけ窓を開け、座席に深く身体を預ける。吸い込んだ空気からは、かすかに春の香りがした。