名前を呼んで


 全ての元凶は、八尋の何気ない一言だった。

 

「そういえば気になってたんだけどさ。司くんって、高良くんのこと家でも相模って呼ぶよね」

 

 ある休日の昼下がり。

 出掛けたりパソコンと向き合ったり、課題のために部屋に引きこもったり。各々が好き勝手なことをしている最中、本を捲る雪見をじっと見つめ、八尋はそんなことを言い出した。彼が突飛なことを言うのは今に始まったことではないが、今回ばかりはさすがに脈絡がなさすぎる。堪らず雪見の眉間にしわが寄った。

 

「……お前は何を言っているんだ?」

 

「何って、そのままの意味だよ。なんで名前で呼んであげないのかな、と思って」

 

「別に名前だろうと名字だろうと、誰を呼んでいるかわかれば問題はないと思うんだが」

 

「それはそうだけどさぁ!」

 

 司くんはわかってないね、と持っていた本を取り上げられる。ますます眉間にしわが寄っていくが、八尋はお構いなしだ。

 雪見は大きな溜め息をついて、仕方なしに「どういう意味だ?」と話を進めた。

 

「あくまで僕の感覚だけど、名字で呼んでるとなんか距離があるように思えちゃうんだよね。どこまでいっても『先生』として接してるというか。もう少し距離を詰めてみてもいいんじゃないかな、と僕は思うわけですよ」

 

 八尋に指摘されるまでもなく、どこか距離があるんじゃないか? という感覚はあった。孤独な高良の傍で、せめて彼の語る真実に耳を傾けたいと思ったはずなのに。まだまだ遠慮されていると――ひとりで抱え込ませていると、そんな気はしていたのだ。

 

「まあ、なんにせよ。せっかく家族同然の付き合いしてるんだし、相模なんて他人行儀な呼び方、しなくてもいいんじゃない?」

 

 取り上げた本を雪見に差し出し、八尋はにこりと笑う。

 それがずっと心に引っかかっていた、というわけではないのだが。

 

「……高良」

 

「…………へ?」

 

 後日、ふと思い出したようにその名を呼ぶと、少年は電源の切れたロボットのようにピタリと動きを止めた。ぎこちない動きで雪見の方を振り返り、じっと見つめる姿は「状況が理解できない」と訴えている。

 それでも、少しずつ状況を飲み込めてはいるらしい。しばらく反応を待ってみると高良の顔はみるみる赤く染まり――それから何故か、勢いよく顔を逸らされた。

 

「すまない、嫌だったか?」

 

 どういう意図で顔を背けたのかはわからないが、少なくとも肯定的な反応には見えなくて、雪見は思わず謝罪してしまった。……のだが、高良は慌てた様子でこちらを向き直ると、今度は勢いよく首を振った。

 

「そ、そんなことはないです! ただ……」

 

「ただ?」

 

「ただ……先生に名前呼ばれると照れるというか……心臓に悪いというか……」

 

「……? つまり呼ばない方がいいのか?」

 

「え!? それは、その……」

 

 鮮やかな若葉色の目があちこちを泳ぎ回る。時々漏れ聞こえる呻き声に困らせてしまったと悟るが、今さら聞かなかったことにもできず、雪見はただ返事を待つことしかできない。

 ちらちらと雪見の方を見ては目を逸らすこと数回。目が合いそうで合わない中、高良は消え入りそうな声で言った。

 

「……呼ばれること自体は、嬉しいです」

 

「そうか」

 

 思わず顔が綻んだ。余計なことをしてしまったかと思ったが、たまには八尋の戯言も役に立つものだ。

 

「高良」

 

 もう一度、今度はハッキリと名前を呼んでみる。

 

「な、なんですか……?」

 

「いや、呼んだだけだ」

 

「…………ッ!」

 

 声にならない声をあげて、高良はこちらに背を向けうずくまった。視界の端に、二人の方を見て笑う八尋の姿が映り込む。

 

「こんなの、心臓いくつあっても足りないって……」

 

 小さな背中から、そんな声が聞こえた気がした。