美潮第二高校の図書室には奇妙な噂がある。
曰く、かつてこの学校で教鞭を執っていた魔女が、暗号を書き記した本を蔵書の中に潜ませた。暗号が指し示すものは話す人によって様々で、ある人はお宝が眠ると言うし、またある人は魔女の隠し部屋があると言う。答えが定まっていないあたりがいかにも噂話だ。
「――で、実際のところ、暗号の書かれた本って存在するんですか?」
利用時間を過ぎた図書室に少年の声が響く。
ちらりと視線をやれば、適当な本を引っ張り出してはぺらぺら捲る戸崎くんの姿があった。校内新聞の取材と称していたけれど、彼本人は噂に興味がないのかもしれない。まあ、だからと言って対応が変わるわけでもないのだけれど。
「うーん、そうだねぇ」と言葉を探しつつ、俺は抱えていた本を棚に戻した。
「俺からはどちらとも言えないかな。暗号を見たことはないけど、ここにある全部の本を読んだわけでもないからね」
「じゃあ、ちょっと質問変えます。先生は暗号、あると思いますか?」
「そうだな……俺個人の意見でいいなら、『あって欲しい』が一番正確かな」
正直、俺は例の噂を信じていない。
戸崎くんに話した通り全ての本を読んだわけではないけれど、暗号が実在するとは思えないのだ。だって、お宝の在処も隠し部屋の場所も、わざわざこんな形で残す意味がない。もし仮にあったとしても古い本は処分されるか、よくて書庫に仕舞われている。閲覧室の本に書かれているとしたら、それは誰かの落書きか悪戯がいいところだろう。
それでも俺が「あって欲しい」と思うのは、単にその方が面白いから。暗号という存在に夢と浪漫を感じてしまうからに他ならない。
へらりと笑ってそんなことを言う俺に、戸崎くんは納得の声をあげた。
「やっぱり先生、そういうタイプの人か」
「そう考えた方が楽しいからね。戸崎くんも同じ部類の人だと思ってたんだけど、違う?」
「いや、違わないです。俺の場合、好奇心が強いだけとも言えますけど」
「なるほどねぇ。でも、その割には暗号に興味なさそうじゃなかった?」
「そりゃあ、俺も暗号があるとは思ってないし。そもそも今日ここに来たのは取材じゃなくて、先生に相談があったからなんですよね」
何かと思い、戸崎くんを振り返る。かち合った金色の瞳は、眼鏡の奥で三日月を描いている。
……あ。これ、たぶん普通の相談じゃない。
瞬時に察しこそしたものの、結局俺は"面白いこと"が好きなのだ。「相談って?」と聞き返す表情は、きっと今の戸崎くんとそう変わらないだろう。
近くの本棚を指さして、戸崎くんは言った。
「図書室に暗号を仕込んだら、さすがに怒られます?」
これは、どう返すべきなのだろう。
思わず真剣に考え込んでしまう。図書室を任されている身としては当然止めるべきだし、幼い頃から本に囲まれて育った身としても、本への落書きを素直には認められない。
しかしその反面、面白そうだと思う俺もいる。たとえ目の前で仕込む宣言をされていても、やっぱり暗号という存在そのものに胸が躍ってしまう。仮にも司書としてどうなんだと思わなくもないけれど、たぶん、こんな俺だからこそ戸崎くんはこの相談を持ち込んだのだろう。
「……やり方次第、かなぁ」
結局、暗号の誘惑には勝てなかった。いかにも面白そうな話なのに、制止するなんてもったいない。
ちょっと押してやれば簡単に靡きそうな俺を、
「だったら、先生も一緒に仕込みません?」
と、戸崎くんが誘う。
もしかしなくても、最初から俺を巻き込むつもりだったのでは? 変わらず弧を描く金色を見ていると、だんだんそんな気分になってくる。
――だったら、とことん付き合おうじゃないか。その方が楽しいに決まっている。
「いいね、乗った」
無意識に口角を吊り上げていたのか、「悪い大人の顔だ」と、戸崎くんが笑っていた。