見た限り、それは完璧なコーヒーだった。マグカップとほとんど同化した、照明を反射する褐色混じりの黒。鼻に届く香りはほろ苦く、立ちのぼる湯気は淹れたてであることを主張している。
――よし。今度こそ大丈夫なはず。
ちゃんと淹れ方は確認したし、余計なことだって何もしていない。プロではないから美味しいとまではいかないだろうが、人並み程度の味にはなっているはずだ。
「ありすさん、コーヒー淹れてきましたよ」
「ああ、ありがとう。しらゆきくん」
本を読み耽っていた雇い主にマグカップを手渡し、じっと様子を見守る。定期的に繰り返されるやり取りゆえに慣れてしまったのか、彼――ありすさんは視線を気にする素振りすら見せやしない。
「……今日のはどうですか?」
平然とした様子でマグカップを口に運ぶありすさんに、俺はすっかり定型文と化した質問を投げかけた。一体何を気にしているんだ? と思うかもしれないが、俺にとっては大事なことだ。
無言で返事を待つこと数秒。ありすさんは小さく頷いた。
「――うん。いつも通りの味だね。不味い」
「なんでだーー!!」
聞き飽きた評価に、俺は結局頭を抱えることとなった。教わった通り、余計なことは一切せずに淹れたはずなのに。どうして俺の淹れるコーヒーは、いつも「不味い」と評されてしまうんだ?
あまり非現実的な思考は持たないようにしているが、もはや特殊能力か何かとしか思えなくなってきた。教えられた通りにやっても駄目、なんなら誰かに見守られてても駄目だなんて、どう考えたって普通ではない。
頭を抱えたままグルグルと目を回す俺に、ありすさんは何も悩む必要ないのに、といった調子で声をかけた。
「そんなに気にしなくていいと思うけれど。私は好きだよ? 君の淹れてくれるコーヒー」
「今、不味いって言ってたよな……?」
「うん。美味しくはないよ」
「あんた味覚おかしいんじゃねえの」
「まさか。私の味覚は正常だよ。君の淹れるコーヒーは、なかなか個性的で癖になるんだ」
癖になる味、というものは確かにあるけれど。ありすさん以外は誰もそんなこと言わないのだから、やっぱりこの人の味覚がおかしいだけな気がする。
「その顔、信じていないね?」
「ありすさん以外、誰も飲もうとしないのが答えだと思いますけど」
「ふむ、その言い分も一理ある。けれども、味の好みは人それぞれ。誰も飲もうとしないのは、隣人たちが君のコーヒーを好まなかっただけ、という話さ」
「そりゃあ、不味いんだから当然でしょう」
けどまあ、味の好みがあるのは確かだ。このまま話していても意見は平行線をたどるだけだろうし、今はこの人の「趣味」がおかしい、ということにしておこう。
一人で勝手に納得し、自分用に少しだけ淹れておいたコーヒーを飲んでみる。……うん、何回飲んでも不味いものは不味い。俺にはそれ以外の感想が出てこない。
わかりやすく顔をしかめる俺を見て、ありすさんはくつくつと笑った。
「なんで笑ってんですか」
「君の反応は見ていて飽きないな、と思って。君には是非とも、このコーヒーを淹れ続けて欲しいものだね」
「なんでだよ! そこは普通、美味しく淹れられるようになってくれ、とか言うところじゃねえの?」
「確かに、普通はそうなのかもしれないけれど。美味しいコーヒーが飲みたいだけなら、理央くんにでも頼めばいい話だからね。私はあくまで、君の不味いコーヒーを飲みたいんだよ」
「褒めてんのか貶してんのかどっちだよ」
「最初から最後まで、私は褒めているつもりだよ?」
「褒められてる気がしねえ……」
今のは絶対、どう考えたって一言多いだろ! 思わずじとりとありすさんを睨みつけるも、涼しい顔で微笑まれるだけで。
はあ、と溜め込んでいた息がすべて吐き出される。俺のコーヒーを気に入ってくれているのは事実のようだけど、毎回不味いと言われるのは癪なので、いつか絶対に美味しいコーヒーを差し出してやろうと思う。心の中で、俺は密かにそう誓うのだった。