リンゴの誘惑


「朔真くん。ちょっと聞きたいことがあるんだけれど」

 

 いつもの時間。いつものように205号室を訪ねてきた隣人は、開口一番にそう言った。まさにドアを開けた直後のことである。

 突然何を言い出すんだ、この人は。

 隠す気もない怪訝な表情を貼り付けて、早く入ってくださいと隣人――雅さんを促す。何を聞きたいのか知らないが、玄関で立ち話に興じる趣味はない。どうせ料理ができあがるまで延々と喋っているのだから、急ぐ必要もないだろう。

 

「で、聞きたいことってなんですか?」

 

 雅さんが靴を脱いだのを見てから、改めて声をかける。すると雅さんは空色の目でじっと俺を見つめ――

 

「お菓子って作れる?」

 

「…………はい?」

 

「だから、お菓子。作れたりする?」

 

 質問の内容もなかなかに唐突なものだった。バレンタイン前ならチョコで何か作らせる気か? と予想できるが、時期的にはまだ早い。ハロウィンも先月終わったばかりだし、どうして今になってお菓子作りなんて話になるのだろう。

 悩んでも仕方がないので、素直に「いや、なんでお菓子作りなんですか」と尋ねる。慣れた様子で飲み物を用意し始めた雅さんは「それがさぁ」と、珍しく困った風な声を漏らした。

 

「実家から林檎が届いたんだけど、これが結構な量で困ってるんだよね。お裾分けするつもりではいるけど、それでもかなり残りそうで」

 

「ああ、つまりそれを処理したいと」

 

「そういうこと。そのまま食べるにも飽きはあるし、傷んじゃったらもったいないでしょ? だからお菓子にしてもらえると助かるな、と思ったんだけど。どう? 作れたりする?」

 

「まあ、レシピさえあれば作れるとは思いますけど」

 

「やった、さすが朔真くん!」

 

「作ることめったにないんで、味は保証しませんよ」

 

「そこは心配してないよ。料理上手な君のことだし、お菓子もきっと美味しいと思ってるから」

 

 雅さんが嬉しそうに目を細めるものだから、思わず「それはどうも」と視線を逸らしてしまう。料理の腕を褒められることにも、無駄に整った顔で微笑まれることにも、まだ当分慣れる気がしない。

 

「ふふ、何を作ってもらおうかな。アップルパイは決まりとして……やっぱりケーキも食べたいし、タルトタタンも捨て難いよね。あ、りんごチップスとかも美味しそうでいいな」

 

「何種類作らせるつもりなんだ……?」

 

「え? ああ、大丈夫だよ。僕はあくまで候補を挙げているだけで、全部作れなんて言わないから。…………たぶん」

 

 あまりにも自信なさげな答えである。この様子だと、どれにするか絞り切れなくて複数作ることになるのは確実だろう。まあ、こんな機会でもなければお菓子作りなんてしないし、作ること自体は一向に構わないのだが。

 

「ねえねえ、朔真くん。これも美味しそうじゃない?」

 

 いつの間に飲み物を用意し終えたのやら。定位置の椅子に腰掛けた雅さんが、スマホ片手にどこか弾んだ声で俺を呼ぶ。心做しか、その目は無邪気な子供みたいに輝いて見える。

 ――それに影響を受けたわけではないけれど。「どれですか?」と確認に向かう俺の足取りがいつもより軽いことには、気付かないふりをしておこう。