「……どうしたもんかなぁ」
ある日の夕食後。食器は自分が洗うから少し待っていて欲しいと言われ、朔真は手持ち無沙汰にスマホを弄っていた。当面の問題解決に向けて情報を集めようと思ったのだが、探せば探すほど頭が痛くなる状況に溜め息しか出ない。本当にどうしたものか。
「お待たせ、朔真くん。ずいぶん大きな溜め息が聞こえたけど、どうしたの?」
テーブルで突っ伏していた朔真の肩を叩き、洗い物をしていたはずの男が声をかけてくる。のそりと顔をあげれば、いっそ腹立たしさすら覚える綺麗な顔がこちらを見つめていた。隣人であり、少し前から一緒に食事をするようになった――より正確には彼に頼まれ朔真が作っている――九十九雅である。
朔真はもう一度溜め息をつくと、素直に悩みの種を打ち明けた。
「引っ越し先、どうしようかと思って」
住んでいるアパートが取り壊されるという話を聞いたのは、10日くらい前だっただろうか。突然大家が訪ねて来たと思ったら、半年以内に部屋を出て欲しいと頼まれたのだ。
確かにアパートの老朽化は進んでいるが、取り壊すほど深刻な状態なのか? とてもそうは見えず朔真が事情を尋ねると、どうやら取り壊しは新しい大家が決めたことらしい。現大家の老婦人も「ごめんなさいねぇ。まさかこんな急に決まるとは思わなくて」と、ずいぶん困惑しているようだった。
ともあれ。立ち退き料を払うとまで言われては、強く反対するなんてできるはずもない。渋々退居を決め、朔真は引っ越し先を探すことにした。
――そこまでは、よかったのだが。
「なるべく職場の近くがいいんですけど、予算がちょっと厳しいんですよね」
そう、全ての問題はそこだった。職場の近くで探そうと思ったら予算が厳しく、予算内で探すと職場が遠すぎる。片道1時間弱なら近い方だとわかってはいるが、現在の通勤時間が徒歩15分なことを考えると、やはり踏ん切りはつかない。生活リズムが大きく変わってしまうのは確実だし、趣味に費やす時間が減ってしまうのは致命的だ。
「雅さんは引っ越し先、もう決めました?」
朔真が退居を迫られたということは、隣人である雅も同じだろう。そう思い尋ねてみると、雅は「そのことなんだけど」と前置きし、なんでもない風にとんでもないことを言い放った。
「朔真くん、よかったら同居しない?」
「…………は?」
「だから、同居のお誘い」
にこりと笑う雅を前に、朔真の思考は完全にフリーズする。雅は今、なんと言った? 同居? 自分とこの人が?
あまりにも突然の申し入れに、未だかつてないほどに動揺しているのがわかった。雅が何を言っているのかわからない。……いや、もしかすると本能が理解することを拒否しているのかもしれない。何せ、朔真は誰よりも知っている。話を聞いてしまったら、きっと自分は彼を突き放せない。同居の提案だって、聞き入れてしまうであろうことを。
「大家さんに立ち退きをお願いされた時、まっさきに気になったのが朔真くんのことだったんだよね。君は優しいから、僕が頼めばなんだかんだ言って話し相手になってくれるだろうし、ごはんも作ってくれるだろうけど、今ほど気軽にはいかないよなぁって」
「……別に、前の生活に戻るだけでしょう? 元々俺たちはただの隣人で、話すこともなかったじゃないですか」
「まあ、それはそうなんだけど。僕は君が思っている以上に、今の生活を気に入っているんだよ。少なくとも、こうやって同居を提案するくらいにはね」
どう答えるべきかわからず、朔真は黙り込んだ。
はじめこそ面倒な人に関わってしまったと思ったが、正直なところ、朔真も今の生活をそれなりに気に入っている。気恥ずかしさとしょうもない意地で認めることも、素直に口にすることも憚られるだけだ。
そんな朔真の気持ちを知ってか知らずか、雅は畳みかけるように訴える。
「朔真くんにとっても、別に悪い話じゃないと思うんだよね。同居って形なら予算は実質倍だし、図書館に近い部屋を諦めないで済むかもしれない。それぞれが自室に篭れば、仕事や趣味を邪魔するようなこともない。それに僕は基本在宅の仕事だから、必要な家事は引き受けてあげられる。もちろん、君が条件を提示するなら受け入れるよう努力するよ。あくまで僕が強引に持ち掛けた提案だからね」
「…………」
「どう? 悪い話じゃないでしょ?」
朔真は今度こそ頭を抱えたくなった。
確かに雅の提案は悪い話ではない。同居人ができるということは生活になんらかの影響を及ぼすだろうが、他のメリットに比べたら些細なものだ。それ以前に、朔真は彼と過ごす時間が嫌いではないのだから断る理由にはならない。やはり自分は、彼の提案を受け入れる運命にあるのかもしれない。
「今すぐ決めて欲しいとは言わないから、そこは安心して。そう簡単に結論を出していい話じゃないし、期限までまだ時間もあるからね。もしかしたらその間に、君好みの部屋が見つかる可能性だって――」
「……別にいいですよ」
「え?」
「だから、同居の話。してもいいですよ」
澄んだ空色の目をじっと見て断言する。たぶん何日考えても答えは変わらないし、後回しにすればするほど自分の口から「同居しましょう」とは言い出せなくなる。そうなったらきっと、この話はなかったことになってしまう。それはなんだか――惜しい気がして。
ひと思いに頷いた朔真を、雅は驚きと嬉しさが混ざったような表情で覗き込んだ。
「本当にいいの? 後悔しない?」
「いや、それはさすがに同居してみないとなんとも」
「それもそっか」
「でもまあ、たぶん、しないと思います」
「ふふ、そうなってくれるといいんだけれど」
ふにゃりと相好を崩す雅に釣られるよう、朔真の頬も自然と緩む。口では「たぶん」などと言ってしまったが、同居を後悔することはないのだろう。そこにはなんの根拠もなかったが、その代わりに、漠然とした自信だけはあった。