「あっ! 見てよエミリオ。猫だよ、猫!」
数十時間ぶりに天文台の外へ出ると、隣を歩くイフが突然嬉しそうな声を上げた。
ほらほら、あそこ! と弾む指先が示す方には確かに一匹の猫が見える。白と明るい茶色の、ちょっと毛足の長い猫だ。
「本当だ。珍しいな」
「どこから迷い込んで来たんだろうね? それとも誰かが連れて来たのかな」
あらゆる世界の境界線上に作られたこの場所には、動物がほぼ全くと言っていいほどいない。誰かが個人的に飼っている小動物とか、いわゆる使い魔と呼ばれるようなやつしか見たことがないんじゃないかと思う。施設自体は大自然の只中に建っているものの、そこに生息するのは控えめに言っても魔物とか化け物の類だ。あれは動物に分類したらいけないと思う。
そんなわけで、ここに猫がいるのは本当に珍しい。イフの言う通り誰かが意図的に連れて来るか、戻って来る時にうっかり巻き込んだか。おそらく後者だとは思うが、当の迷い猫は実に優雅に境界世界を歩き回っている。異世界に飛ばされたというのにのんきなやつだ。
「誰かが飼うつもりなら首輪とか付けるだろうし、うっかり巻き込まれただけだろ。でもあいつどうするんだ?」
「僕としてはこのまま境界で飼って観察したいなぁ。そのうち化け猫になりそうじゃない?」
「化け猫?」
「うん、化け猫。どこかの〈星〉の伝承でね、長生きした猫は人に化けたり、人の言葉を喋ったりするようになるんだって。ここって時間の概念が狂ってるからさ、しばらく放っておいたら喋り出しそうだなーと思って。見たくない? 喋る猫」
「見たいか見たくないかで言えば、そりゃ見たいだろ」
「でしょ? だからまずは、あの猫を保護しようと思います。あのままだと元の世界に帰されちゃうだろうからね」
「つまり首輪を付けたいわけか。で、誰が捕獲すんの?」
「エミリオ」
さも当然だと言わんばかりに即答された。まあ、イフの体力のなさと運動神経の悪さじゃ猫の捕獲が難しいことは本人が一番わかっているだろうし、俺自身こうなる予感はしていたのだが。
仕方ないな、と溜め息をついて羽織っていた白衣をイフに預ける。あんな丈の長い服を着たまま自由に動き回れるかって話だ。
「がんばってね、エミリオ」
なんで俺が猫の捕獲なんてしないといけないんだ。
正直そう思わないでもないが、大好きな笑顔を前にしたら全部どうでもよくなった。いつだって俺はイフにとことん甘いのだ。
◇◇◇
一つ言わせて欲しい。猫の運動能力を舐めていた。
逃げられると言っても境界の敷地面積はたかが知れているし、そこまで苦労することはないだろう。そう思っていたのに、いざ捕獲に向かってみるとやつはやたらすばしっこく、手を伸ばせば触れる前にするりと躱される。まともに追いかけても無駄だからと壁際に追い込めば隙を見て足元を走り抜け、時には大きく跳ねて俺の頭上を飛び越えて行ったりもした。
そんな具合でいいように遊ばれる俺の姿は、周囲から見たらさぞかし滑稽に映ったに違いない。というか、実際結構な人数に怪訝な目を向けられていた気がする。
「くそっ! なんなんだよあの猫!」
思わず叫ぶ俺を嘲笑うように、目の前で「にゃあ」と猫が鳴く。本当に腹立たしいやつだ。
「なかなか手ごわいね。罠とか仕掛けて……あの子賢そうだし引っ掛からないか」
「将来的に化け猫まっしぐらだな」
「ふふ、楽しみだね。でもどうやって捕まえたらいいと思う? 策とか練っても意味なさそうだよね」
「んなもん正面突破一択だろ。一人が駄目なら二人で追い込む。というわけでイフもちょっと手伝ってくれ」
「それは構わないけど……あんまり期待しないでね?」
たぶん邪魔になったのだろう。いつの間にか預けていた白衣を羽織っているイフと共に、もう一度猫を壁際へと追い込みにかかる。慎重に距離を詰めていき、なるべく抜け道がないように数メートルほど間を空けて対峙する。
こちらを警戒する猫から目を逸らさず、俺はこっそりとイフに言った。
「お前から手出してくれ。そしたらたぶん逃げようとするはずだから、俺が捕まえる」
「OK、逃がしていいなら僕にもできるね!」
そんな得意げに言わないで欲しい。心なしか目が輝いて見えるからとても口にはできないが。
ともかく、今の状況をだいぶ楽しんでいるらしいイフは「それ!」と猫に飛び掛かった。
「痛っ」
「捕まえた!」
……そして何故か俺が悲鳴を、イフが心底嬉しそうな声をあげることになった。
理解できる範囲で話すならイフの手をすり抜けた猫が俺の顔面を蹴り飛ばし、その勢いのままイフの手元に飛び込んだ、ということだと思う。しかも偶然とかではなく自分の意思で。リボンを首輪代わりに巻かれそうになっても逃げる素振り一つ見せないのがいい証拠だ。
いよいよ遊ばれただけじゃねえか!
ほとんど睨み付けるように猫の方を見やるとやつは確かに俺と目を合わせ、それからふいっと顔を背けてしまった。なんとも人間らしい仕草である。実はもう化け猫です、とか言われても驚かない気がする。
「よし、できた! これで勝手に連れて行かれることはなくなったね」
密かな攻防戦が行われる中、しれっとリボンを巻いていたイフが満足げに猫を抱えあげた。どうやら自分の髪を結わえていたものを使ったようで、先ほどまで緩い三つ編みになっていた長い髪が座り込んだイフの周囲に広がっている。
「あとはメルヴィンに許可をもらえば――あっ!」
「!?」
だからなんで俺を踏み台にするんだ、この猫は!
用事は済んだとでも言うようにイフの手をすり抜け、やつは再び俺の顔面を蹴り飛ばすと優雅な着地を決め、そのまま歩き出した。どこへ行く気か知らないが、なんだか怒るのも阿呆らしくなってきた。
長い溜め息をついて蹴られた箇所を擦る俺の顔を覗き込み、イフは小首を傾げて言った。
「エミリオ、あの子にすごい嫌われてるね。前世で猫に悪いことでもした?」
「そんなの俺の方が聞きてえよ……」
◇◇◇
余談だが、やつの名前はハルトの一声により『きなこ』に決定した。なんでも以前お土産に貰ったきな粉餅から発想を得たそうで、なるほど確かに、言われてみると色合いが似ていたような気もする。
「美味しそうな名前!」とイフにはずいぶん好評だったが、果たしてそれは褒め言葉なのか? という疑問は黙っておこうと思う。