研究所の猫


 彩原尊がそれを見かけたのは、定期健診のために研究所を訪れた帰りのことだった。

「……うん?」

 何度来ても迷子になる施設内を歩き回り、ようやくロビーまで戻ってきた時。目の前を横切った小さな影に、尊は思わず足を止めた。

 

「尊? どうかしたのか?」

 

 付き添ってくれていた伊吹も立ち止まり、不思議そうな表情をこちらに向けてくる。どうやら彼は見ていなかったらしい。

 まさか見間違いだったのだろうか? ふとそんな気持ちが湧き上がったが、すぐにそれはないと思い直す。確かに何かが通ったはずだ。

 

「今、何かが通り過ぎた気がしたんだけど。伊吹は見てない?」

 

「見てないな。その言い方だと、ここの職員じゃないんだよな?」

 

「うん。もっと小さい、たぶん人間じゃない何か……あ! もしかしてあの子?」

 

 身振り手振りで説明していた尊は、視界の端に映った小さな影に気が付くと、すかさずそれを指さした。

 猫である。種類は茶トラで、胸元には首輪代わりと思しき赤いリボンが揺れている。大きさからして、先ほど見た影はおそらくあの猫だろう。

 

 しかし、どうしてこんなところに猫が? 尊は首を傾げた。

 首輪はしているし、特に警戒する様子もないあたり、さすがに野良猫ではないはずだ。となると誰かがわざわざ連れてきたか――尊の知らない間にここで飼い始めた。あるいは、勝手に住み着きでもしたのだろうか。

 真剣に悩み始めてしまった尊をよそに、問題の猫はのんきにあくびをすると、日当たりのいい場所を陣取り丸くなった。この研究所には慣れているらしい。

 

「猫なんて、誰か飼ってたっけか?」

 

「伊吹にも心当たりないの?」

 

「ああ。つっても研究所内で交流あるやつなんて数人しかいないし、誰かが飼ってても不思議じゃないけど。そもそも、ここの職員が猫を飼おうって考えると思うか?」

 

「言われてみれば、確かに。自分の家より研究所にいる時間の方が長そうだし、現実的な問題として飼えないイメージはあるかも」

 

 でも、だったらあの猫は?

 尊はもう一度、猫へと視線を向けた。ちょうどその時だ。

 

「よっ、お二人さん。ここにいるなんて珍しいな」

 

 と、声をかける人がいた。

 聞き覚えのある声に、二人は揃って声が降ってきた方――すぐ傍の階段を見上げる。そこには2階部分から身を乗り出し、ひらひらと手を振る白衣の青年の姿があった。

 

「ハルトくん! 会うの久しぶりだね」

 

「そういえば伊吹とはたまに会ってたけど、尊と会うのは久しぶりだっけ。健診?」

 

「そうだよ。最近は体調も安定してるけど、念のためね。ところでハルトくん、一つ聞いてもいいかな」

 

「ん?」

 

「あの猫のことなんだけど……」

 

 そう言って、尊は丸くなっている猫を指さした。彼も研究室に篭もりがちなタイプではあるが、交友関係は間違いなく広い部類だ。堂々とロビーを闊歩する猫について、何かしらの情報は持っているだろう。

 案の定、階段を下りて来たハルトと呼ばれた青年は「ああ、きなこ?」と、その名前を口にした。

 

「きなこがどうしたんだ?」

 

「なんで研究所にいるのかな、と思って。誰かが飼い始めたの?」

 

「そっか、二人には話してなかったっけ。きなこは少し前から、ここのみんなで世話してるんだ」

 

「研究所で飼ってるってことか? なんでまたそんなことを」

 

 伊吹が当然の疑問をぶつけた。尊としても気になるところだったので、うんうんと頷いておく。先ほども二人で話したが、研究者がわざわざ猫を飼うとは思えないのだが。

 ハルトは「実はさぁ」と、その理由を語った。

 

「あいつ元々は野良猫だったんだけど、誰だったかな。ここを出入りしてる職員に懐いちゃって。野良に帰そうとしても戻って来るから、いっそ飼うかって話になったんだ」

 

「そんなノリと勢いで飼うなよ」

 

「仕方ないじゃん、何回外に出しても気付いたら敷地内歩いてるんだから。それに飼うって言っても決まった時間に餌用意しておく程度だし、感覚としては通い猫の方が近いかもな」

 

「じゃあ、ベッドとかも用意してないの?」

 

「飼い始めてすぐは一応置いてたけど、全然使わないから撤去された」

 

 定位置で寝ることはしないが、基本的に敷地内にはいるし餌も食べにくる。その自由な生き方は、確かに飼い猫というより通い猫に近いのかもしれない。

 それにしても、

 

「なんていうか、賢そうだよね。きなこ」

 

「まあ、計算高そうではあるな」

 

「そのうち喋り始めたりして」

 

「否定できないのが悔しい」

 

 好き勝手なことを言いながら、ふときなこの方へ視線を戻す。噂されているとは知りもしないはずの猫は、興味ないと言わんばかりに大きなあくびを漏らしていた。