――始まりは遠い昔。まだあやかしと人間の共存が夢物語だった頃。
現在〈凍り岩〉がある山頂には、一人の雪女が住み着いていた。幼い子供や若い男から精気を吸い取る、逸話にあるような美しい女だ。
当時はまだ周辺の整備も進んでおらず、近隣地区との近道として利用されていたそこは、彼女にとって何かと都合のいい場所だった。冬になると雪が積もり、人の往来も激しいわけではない。ちょっと人間に手を出したところで誰にも目撃されない、絶好の狩り場。
人間が通りかかるたび、雪女は気まぐれに彼らの精気を吸い取った。そうして被害者が増えるにつれて人々はその場所を恐れ、気付けば誰も近寄らなくなっていた。
そんなある日のことだ。
珍しく一人の男が山頂を通りかかった。純粋そうで、いかにも騙されやすそうな男だった。
「もし、そこのお兄さん」
雪女は男を襲うつもりで声をかけた。人間たちの間で妙な噂でも出回っているのだろう、久々に見かけた獲物(にんげん)だ。逃す手はあるまい。
なるべく怪しまれないよう、困った風を装って距離を縮める。第一印象のとおり、男は疑うことなく雪女に対応し――その手を取った。
「女性が一人でこんな場所にいては危険です。よくない噂も聞きますし、一緒に山を下りましょう」
目の前の女が"よくない噂"の元凶だとも知らず、男は下山しようと訴える。当然、雪女にそんなつもりはない。それどころか、彼を襲う算段を立てているくらいだ。しかし、はじめての温もりは雪女を戸惑わせるには十分すぎる効果を持っていて。
結局、雪女は無理やり手を振り払い男から逃げ出した。
それからというもの、男は頻繁に山頂を訪れるようになった。最初のように近道として通るのではなく、いつも何かを探す素振りを見せては溜め息をついて帰っていく。
……まさか、私を探している? いや、そんなはずはない。だって彼には、偶然出会っただけの女を探す理由がないじゃないか。
そう、頭ではわかってはいるのに。何度もやって来る男に、雪女の心は次第に囚われていった。木陰からこっそり彼の姿を確認しては熱い視線を送り、下山する背中を見ては一抹の寂しさを覚える。この感情は、一体なんなのだろう?
いつの間にか、雪女は恋に落ちていた。
恋心を自覚しないまま時は過ぎ、春の兆しが見えてきた頃。定期的に山頂を訪れていた男が、突然姿を見せなくなった。きっと探していたものが見つかったのだろう。それは喜ばしいことなのに、雪女の心はちくりと痛む。
気が付くと、雪女の足は麓の町へと向かっていた。普段なら絶対、山から下りたりしないのに。
それが間違いだったのだ。
「彼、本当に優しい人だったわね。最期まで子供を助けようとしていただなんて」
雪女は聞いてしまった。彼が――あの時の男が、亡くなったという事実を。
信じたくないと思った。嘘であって欲しいと願った。しかし雪女には真実を確かめる術はなく、それどころか、彼が突然姿を見せなくなったことこそが何よりの証明で。
男の死を悟った雪女は嘆き悲しみ、三日三晩泣き続けた。その間、山頂付近には吹雪が吹き荒れ――やがて、それが晴れる頃。山頂にあった岩はすっかり凍り付き、雪女の姿もどこかへ消えていた。
それ以来、どんなに季節が巡っても溶けないそれは〈凍り岩〉と呼ばれるようになった。
***
銀華が一通り語り終えると、室内はしんと静まり返った。聞こえるのはニュースを読み上げるアナウンサーの声と、祈がずびずび鼻をすする音くらいだ。棗にはよくわからないが、どうやら祈には、今の話に何かくるものがあったらしい。
「〈凍り岩〉の伝承はわかりましたけど、それがどうしたら雪を止ませられるかもしれない、なんて話に?」
「これはあくまで妾の推測じゃが……ブローチをなくした雪女の悲しみと〈凍り岩〉の伝承が共鳴し、本人の意図せぬところで雪が降り続いておるのではないか? 一言で説明するなら〈凍り岩〉が雪女の力を勝手に利用している、といったところか」
「そんなことあり得るんですか?」
「知らん。あくまで妾の推測だと言ったじゃろう? ただまあ、あやかしは力を使いすぎると現在の姿を保てなくなる――例えば一時的に身体が透明になったり、幼い外見になったりするからのう。おぬしらが会ってきた雪女が力を使っていることは間違いない」
「じゃあ、ブローチを探せというのは……」
「雪女の悲しんでいる原因さえ解消すれば、〈凍り岩〉との繋がりは切れるはず。そうすれば〈凍り岩〉に力を利用されることはなくなり、雪も止むという寸法じゃ。試してみる価値はあると思わぬか?」
すっと金色の目を細め、銀華は笑った。
にわかには信じがたい話ではあるが、銀華の言う通りなら一応の辻褄は合う。ほかの原因に心当たりがない以上、彼女の提案に従いブローチを探してみてもいいのかもしれない。
だが、そうなると問題は。
「理屈はわかりましたけど、どうやって探すんですか? 雪で埋もれているだけならともかく、誰かに拾われでもしたらとても見つけるなんて……」
「それなら問題ない。妾に妙案がある」
至極当然の響也の疑問に、銀華は自信満々に答えた。
「雪女に案内させれば良い」